ようこそ♪

Welcome!

Herzlich Willkommen!

Soyez le bienvenu!

Bienvenidos!

ようこそ!

欢 迎!

어서오십시요!

Hoş geldiniz!

Selamat!

أهلا وسهل!

שלום מה חדש!

خوش آمدید!

आइए!

Добро пожаловать!





2010年12月23日木曜日

冬の一日

 三崎口にて。

ふと思い立って散歩に行ってみた。いつもは車なのだけれど、今日は歩きだ。
同じ場所を通っても交通手段が違うだけで全く別の風景に見えるね。
この景色の中、持参したお弁当をのんびりと食べてきたよ。
うん、良い一日だった♪ 

2010年11月16日火曜日

chromeが遅いとお嘆きのあなたへ〜googleへ身売りの勧め〜

またまた写真とはなんの関係もないおはなし。

最近でもないけれど、うp主は巷で速いと評判のgoogle chromeを導入していたりする。
でもこれが遅かった( ゚д゚ )。どうしようもなく遅かった(´Д`)何故?。。。
重いことで有名なFirefoxの方がサクサク表示してくれるってどういう事よ。。。
同じ症状の人は結構たくさんいて、調べてみたら「DNSプリフェッチ」をオフにすると良いらしい、ということで試してみたらかなり速度改善。それなりに満足していたわけです。

しかし考えてみると、本来DNSプリフェッチというのは速度改善のための手段のはず。それを切ったほうが速いなどという本末転倒なことが起こってしまって良いのか?という疑問がむくむくと頭をもたげて来た。

そこで「ならばGoogleの提供するDNSを使ってみよう」と思いつき、コレを設定してみたのですよ。

うp主はmacなので以下その設定方法。
環境設定→ネットワーク→Ethernet(無線で使っている人はAirMacになるのかな)で「DNSサーバ」の欄に8.8.8.8と8.8.4.4という二つの数字を入力。
chromeのDNSプリフェッチはオンのまま。

結論
これ、正解でした。
今までに経験したことのないような爆速ブラウザーが誕生してしまった♪
google DNSはアメリカにサーバーがあるので、本来はそこまでの通信に因る遅延が発生するはずなのだけれど、そういったことも全く感じさせずに描画を開始してくれています。
やはり純正同士だと相性が良いということなのだろうか?

Chromeが遅いとお嘆きのあなた、この機会にGoogleさんに魂まで売り渡してみては如何?

2010年11月5日金曜日

迷子の孤独

観音崎の灯台。その心臓ともなる照明装置だ。
小さい頃の俺、将来の夢は「灯台守」だったことをふと思い出したね。
単に人と話さずに済んで、毎日海を見ていられると思ったからなのだけれど。
・・・その志向は今でも大して変わらんな(;´∀`)

2010年11月2日火曜日

ようやく復活。。。

指の怪我をして以来、どうにもキーボードをうつのも億劫になってしまったのをきっかけに、しばらくネット環境から離脱していた。
ここのままでは情報難民になってしまうと思い、ようやく復活。

やれやれ。

2010年9月1日水曜日

人間ってスゲ━━━━━━ヽ(゚Д゚)ノ━━━━━━!!!!

昨今流行りの「食べるラー油」なるものを作ってみたくなった。
その材料となるフライドオニオンを作るために慣れないスライサーを使ったのが間違い。ご覧のようにスパッといってしまった。。。
6時間、出血。
で、どうしようもなくなって病院へGo。写真は負傷より一日経った時のもの。

そしてこれが一週間後。
傷ってこんなに早くふさがるものなのね。
正直、ここまで早く回復するってことの方が怖いわ。。。。(´Д`) 

皆さんも料理の際には気をつけてください。

2010年8月19日木曜日

(改めて)深さ無制限の世界へのお誘い(´Д`)

Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 カラスってのは仲間意識が強いらしく、仲間の死体が吊るされているところを避ける傾向にある。これは「仲間がやられた→次は自分かも」という認識が働くからと考えるのが一番自然と言えるだろう。
 実に理性的な判断であると思う。

 一方で、フランス革命の時代から人間の本質は理性だと一応は説明されてきたわけだけれど、頭に血が登って後先考える事無く違法行為に走る輩の多さや、自殺願望を持つ者の多さからするとそれについても懐疑的にならざるを得ないね。そもそも自己保存欲求は生物として最も基本的な要素のはずなのに、なぜそれに逆らう行動を自ら好き好んでとろうとするのか。

 そう疑問を持った人たちもたくさんいたのだろう。20世紀に入ってからの構造主義者たちは「人間の本質は自然界からのズレだ」「人間の本質は混沌だ」と主張してきた。フロイトもまた「人間はホモ・サピエンス(理性の人)ではなく、ホモ・デメンス(錯乱せる人)だ」と主張する。だからこそ人間は本来であれば到底選択し得ないような愚かな行動をとってしまうのだ、と。
 
 こっちの説の方が遥かに説得力があるように感じる。
  理性と混沌の双方をその内部に持つ存在。「自己矛盾を持った存在」こそが人間の定義だとするならば、その自己矛盾は人間が人間である限りずっと解決できないままついてまわる。
 
 やれやれ。俺達は実に奇妙な生き物として生まれたな。
 でも折角だからこの状況、俺は出来る限り考え、行動し、楽しんでみようかと思う。
 モニターの前のあなたもご一緒に如何ですか?

2010年8月17日火曜日

人の記憶と解像度


たくさん食べて、たくさん夢を見る。なんと平和な生き物だ。
はぅ、やはり猫に産まれてくるべきだったか←選べたのか?それf(^ー^;

能書きはこれくらいにして写真について。
コイツら全く動かないので同じ構図で何枚も撮影できたのだけれど、一番ピントの合っていないこの写真が一番イメージ通りだった。
いままで俺は解像度命なところがあって、カメラやレンズ或いは作例を選ぶ際にも「如何に細かいところまで、かつ四隅まで精密に描写できるか?」という点を重要視していたのだよね。
ところがこの写真、まったくピントは合っていないし絞りも開けすぎてボケボケ。本来なら失敗に属するものであるにも関わらず、当初予期していたイメージ以上にこの子らの普段の様子を描写してくれている。
作品としてダメダメだろうと、他の人がなんと言おうと、俺はこの写真が好き。

バロック期の絵画などは精密描写が信条という部分が大きいけれど、それが時を経て近代、特に印象派になると全体にぼやっとした作風になる。高校生の頃に俺はそれを見て「劣化だ」としか感じなかったのだけれど、今になるとむしろそういった画像の方が頭の中のイメージに近い(俺にとっては)と言うことを実感として認識してきた。
人間である以上、視覚から受けとった情報は主観というフィルターを通して変化することが避けられないわけで、良きにしろ悪きにしろその人にとって都合の良い事実にねじ曲げられて記憶される。
あとはそれを如何に表現するか?というスタンスの問題で、精密描写のように「事実を記録し、見た者が各々で主観を形成しろ」とするか、印象派のように「自分の主観において変容した情報こそが自分にとっての真実なのだから、それを他者にも提示するべきだ」とするかなのだろうね。
写真というのは被写体が存在し、それを光学的にとらえ化学的にフィルムに焼き付ける手段であるから、本来であれば後者のような表現には向かないものである筈なのだけれど、偶然にこういった写真も撮れる。
「偶然性」という、絵画には存在しにくい要素をかますことにより、奇しくも近代絵画に見られる作風と類似の効果を得られるということか。

こういう写真も好みの内に入ってきたからといって狙って撮れるというものでもないし、自分の撮影スタンスを変えるつもりも毛頭無いけど、新たな価値観を得る事が出来、またこういったことを考える機会が持てたというのはとても貴重なことだなと感じる。
これからも色々な発見をしていきたいねぇ♪

2010年8月16日月曜日

この眼。

Cosina Bessa-R jupiter 50mm f2.0
Kodak Tri-x400 D76 1:1希釈現像

生物にとって世界は常に敵対する存在である。
人間どもはその事を忘れすぎているのではないかね?
そう言われている気がした。

2010年8月14日土曜日

天使を捉えるために

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-54mm

上手く張ったなぁ。素直に感心する。
美しく、気高く、誇りにさえ満ちている。
唯一の問題は、コイツが俺の干した洗濯物同士の間に構築されてしまったということなのだよなぁ。。。

2010年8月13日金曜日

こんなんなっちゃった(´∀`)

Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 d76 1:1希釈現像

ここまで連結されているともうワケが分からなく。
とはいえちゃんと意味があるのだろう。もしくは設計したヤツが馬鹿で必要以上に複雑にしてしまったとか?
むしろ後者であることを望みたい。世界は常にシンプルであってほしいからね。仮にそのシンプルさが人にとって酷なものであったとしても、偽って綺麗に見せるよりは真実を認識できたほうが俺にとっては遥かに嬉しいからね。

2010年8月12日木曜日

だからどうした!

olympus E-500
zuiko digital 14-45
この数日は個体の存在意義について考えていたのだけれど、もうそれもやめることにした。
俺が小さな社会システムの内包物に過ぎないとしても、そこで感じてきた感情や考えてきた事柄は事実として存在する。
俺にとっては社会がどうあろうと実はあまり関係ないのだね。

ふと、ショスタコーヴィチの第7番(だったかな)を思い出したね。国が戦争で勝とうが負けようが一国民にとってはイベントの一つでしか無い。「お、勝った?じゃぁビールでも飲んで楽しもうか」という程度の気持ちしか沸き上がってこないもんだ。
社会の枠から外れてしまったといえばそうなのだろうけど、それこそがむしろ人としてあるべき姿であるように感じる。

2010年8月11日水曜日

この考え方が頭から離れない。。。

珊瑚は一つ一つの珊瑚虫が寄り集まって全体としてサンゴ礁を形成し、そうやって初めて生存してゆくことが出来る。それが我々にとってみれば全体を一個の珊瑚礁として認識される。
同時に人もコミュニティを作り、それに帰属する。そして自分たちの済むべき家を作り、働く建物を作り、生活の殆どすべてをその内部で完結させる。
これは客観的に見た場合に、珊瑚礁と何ら変わらない生活方式であると言える。
となれば我々はやはり、社会という大きな生き物の、代替可能な細胞のひとつに過ぎないのだろうか。
やれやれ。

2010年8月8日日曜日

てーげー主義。

Olympus E-500 
ZuikoDigital14-45mm f3.5-4.5
 
 先行き不安な雲の波。
 まぁ、なんとかなるっしょ。

2010年8月3日火曜日

蟻から人間まで

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45

 蟻というのは社会的生物。つまり集団で行動し、群れ全体における成功を目指す。
 このような生物においては各個体の個性や行動は単に群れ全体における功績の礎のひとつとしか評価されず、仮に同様の行動をする他の個体が存在するならばいくらでも代替が効く。
 「産めよ育てよ」で群れの規模が大きくなればなるほど、そこにはより多彩な個性を持つ個体の存在可能性も高くなるわけで、その分群れ全体としての発展可能性も高くなる。
 とどのつまり、こういった生物においては群れそのものがひとつの生物として認識されるべきで、「個体」というのは群れを形成する数のひとつに過ぎない。ある個体が死んだとしても、いうなればそれは身体の細胞の一つが死滅したと同程度の意味をしか成さないことになる。

 人間もまた社会的生物のはしくれである。
 とすれば巷でよく言われる「個性」やら「自主性」やらも、結局はその人が属する社会、もっと言えば人類全体の発展性に寄与するコマのひとつに過ぎないと考えるほうが遥かにスマートだ。
 また社会はそこに住まう者たちに夢を与えることで、その思考を統制し全体としての発展に寄与する方向に導く。「パイロットになりたい♪」「看護士さんが夢です♪」などという子供たちの無垢な夢も、結局はそうやって形作られる。仮に社会的に容認できないような変な夢を持つ子が現れたとして、それもまた「社会全体の可能性を広げる」ための布石の一つとして評価されることになる。
 これをより直接的に言い放ったのが社会主義。資本を持ち出して「金を増やせよ」という方向付けで「全体としての発展」という真の目的を覆い隠したのが資本主義という穿った見方もできる。

 さて、どうだろう。これではあまりに残酷ではないか。正直、唾棄すべき見解だと思う。
 だから俺はこれを否定し、脱出しようともがいた時期もあったのだけれど、いまだに良い方法が見つからないでいる。
 「視点を変えればいい。世界は見方によってなんとでも変わるのだから、自分を中心に考えれば全て氷解する」という人もいる。傾聴に値する。しかしこれすらまた、社会がその目的に疑問を持たせないように予め用意した「物語」の一つであるという見方もできるのだ。

 困ったね。本当に困った。どう考えていけばよいのだろう。。。

2010年7月29日木曜日

登ってはいけない?

Nikon F2 Ai Nikkor 50mm f1.4s
fuji superia 400

人は、何かを命令されるとその反応において二種に分類される。
  1. 自己がその命令に従うべきものか否かを、自らの属する社会集団のルールに従って判断する人。
  2. 命令が発せられた理由を考え、問い、筋の通った理由が見つかれば命令に従った行動をする人。


 前者の人が大多数かと思う。こういう人がたくさんいるからこそ、この社会は成り立っている。

 しかし後者についてはちと様相が異なる。
 つまり、その人は自らの合理性に照らしてそうしたいと思う行動を選択するだけだから、その行動の根本に「従う」という観念なぞそもそも存在しない。
 こういう人の場合、社会の規範に「従っている」ように見えて、実は自らの意志で無数の選択肢から自主的に行動を選びとっているに過ぎない。つまり単に命令された内容と自分がとりたいと思う行動が一致したとき、客観的に見れば社会規範に「従っている」という状態として映っているのに過ぎないと言える。 

 後者の人は自由とは何たるかを心得ている。
 しかし同時に問題も存在する。社会の規範やそこで発せられる命令が自らの思考と相容れないとき、その人はともすれば社会から逸脱し、場合によっては排除される行動を選択するかもしれない虞を秘めている。

 それでも俺は、より自由たらんとする後者の姿勢にこそ魅力を感じる。「自由」という概念は、人が培ってきた重要な財産であると考えるからだ。
 とはいえ、人が社会的集団を形成して生活するいきものである以上、それを無視して生きることもまた不可能である。
 「人は自由である」という立場を前提としながら、同時に社会とうまくやっていく方策を模索してゆくべきなのだと考えていたりする。

 さてさて、難しいね。
 本当は社会の大多数の人が後者のようになり、それでも尚且つそこで発せられる命令規範に沿って生きたくなるような社会を実現するというのがベストなのだろうけど、そんなことを実現できた社会は歴史上何処にも存在しない。
 民主主義とは元来そういう理想のもとに形成されたはずなのだが、どの社会においてもイデオロギーの名のもとに必ず少数の反対意見が切り捨てられ、なかった事にされてしまう点で、常に社会の一部に異端分子を生み出す結果となる。これは民主主義の持つ構造的な問題であると言えるだろうね。

 社会全体のシステムとしての最適化。その道のりはきっととてつもなく長いぞ。数百年、あるいはもっとかかるかもしれない。そもそも実現可能なのかすら怪しい。
 でも希望は捨てずにいよう。希望を持つこと、それもまた俺の自由なのだからね。

2010年7月27日火曜日

迷いこむなら竹の林。

Nikon F2 Ai Nikkor 28mm f2.8s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像
 
 行ったら戻って来られない。
 
 ふと、そんな感じがした。

2010年7月25日日曜日

時の止まる夏。

cosina Bessa-R Industar-22 50mm f3.5
fuji superia 400
 久しぶりにロシアレンズの登場。インダスター22の5cmでございますよ。
 巷では「値段の割によく写る」「ただし故障とかあってもしらん」
などと色々言われているロシアレンズだけれど、俺にとっては立派なメイン機材の一つとして活躍してくれている。
 こいつは外見はライカ・エルマー5cm沈胴レンズのパクリ。3郡4枚の単純な構成であるためか透明感というか、目の前にあるものをそのままに写しだしてくれるという点ではとても重宝している。エルマー自体コンタックス用レンズであるテッサーとほぼ同型であり、テッサーの設計が1902年ということからすると、ほぼ100年も前の光学設計で作られたレンズで撮影していることになる。
 確かに現代のレンズに比べるとボケは汚いし開放は暗いし良いとこなしだが、この写りを見る限りにおいては実用上問題があるとは全く思えない←単に俺がそういう使い方しかしていないだけという話もあるがね(;´∀`)
 こう考えると、この100年で何がどう発展したのかがもう分からなくなってくるね。。。

2010年7月23日金曜日

全長1.5メートルの憎いアイツ

Nikon F2 Ai Nikkor28mm f2.8s
Kodak Tri-X D76 1:1希釈現像


人間は対象の大きさが変わってもきちんとそれが何かを認識することが出来るのだね。これは対象をその形状や大きさではなく、意味として認識しているということなのかな。
新たな発見だった。

2010年7月22日木曜日

にくきう

Nikon F2 Ai Nikkor28mm f2.8s
Kodak Tri-X D76 1:1希釈現像

こいつら、野良のくせに肉球がぷにぷにで。性格も良かったりする。
・・・もしかして関連性があるのか?

2010年7月21日水曜日

遺物へ。

Nikon F2 Nikkor ai-s50mm f1.4
kodak tri-X400 D-76 1:1希釈現像

 筆者の住む横須賀は古くから軍事拠点として重要視されてきた。山の上にあるこの公園もかつては要塞。地元の人間はいまだに「砲台山公園」と読んだりする。東京湾に侵攻してくる艦船をここから砲撃するために大砲が据え付けられていたそうな。
 大砲があるということは当然弾薬庫もなければならないわけで、この屋根はその名残なそうな。小高い丘のようになっているが、今でも地下には大きな空間が誰も入れないままに残されているはず。
 俺が小さい頃には確かまだ入り口が残っていたのだよね。その頃に一度くらい入っておけば良かったと今になって後悔してみたり。ほら、子供のやることだから、見つかってもこっぴどく叱られるだけで済むじゃない(゚∀゚)。今やっちゃったら犯罪になっちゃうからねぇ。
 年は取りたくないねぇ。

2010年7月20日火曜日

未熟者の合気道メモ。とりあえず今までに得たもののまとめ。

Olympus E-500
ZuikoDigital 14-45


力の発生及び伝達について
  • 力を入れるのではない。力を出すのだ。
  • 力の発生源は身体のどこでも良い。
  • 力の作用点もまた、身体のどこでも良い。
  • 発生した力を相手に作用させる部位まで、波として自らの体の中を伝達させる。
  • 慣れてきたらこれを円、放物線、螺旋として活用する術を研究。
  • 対象に力が伝達する過程におけるノイズを徹底して除去する。
  • そのためには膝の抜き、肩甲骨の緩み、肋骨の圧縮及び解放が肝となる。
  • 腕は肩から生えているのではなく、首のすぐ横から生えているものと認識する。
  • 関節を固定支点としたクランク運動は悪と心得よ。揺動支点こそ実現すべきものだ。
  • 絶対に体をねじったりひねったりしてはいけない。常に体全体が面のようにして動く。
  • 丹田に集中。ただし必要最低限の力と意識を注ぐだけに留める。
  • 力を対象に有効に作用させたければ、対象そのものではなくその少し上方または下方を打ちぬくが如く。

戦術面について
  • 自らの力を抜いた瞬間に相手の力も一瞬抜ける、「うつらかす」という現象をなるべく多くの人に相手してもらって研究。
  • 「先の先」を研究すべし。「技術としての無心」がこれを手助けする。
  • 相手の手や足、あるいは目を凝視してはならない。全体をぼうっと把握することを心がける。
  • 相手の力の方向をベクトルとして認識し、これに作用しねじ曲げる事を基本とするべし。ベクトルを「折る」方向に力を加えてはいけない。
  • 手のひらで敵を捉えるのは困難。腕全体、ないしは体全体を相手に絡みつかせる。
  • 無足、浮身を利用した歩法を常に研鑽。重力こそが自らにとって最大の味方であると心得る。
  • 多人数掛けの際、一人に技をかけているときには既に別の者に意識が行くように。
  • 多人数掛けの際、敵の体を利用して別の敵からの盾とする。
  • 対武器戦闘の際には、相手の武器を奪い取るのではなく、相手に持たせたままこれを利用する。
  • 刃物は自分の体に接触していても、動かさないよう固定すれば切られる事はない。

その他
  • 居付かないように。そのためには常に呼吸を続ける。息を止めると居付きやすい
  • 背骨を真っ直ぐに。かつ硬直せず、竹ひごのようにしなやかな軸を意識。
  • 常にリラックス。膝、肩甲骨、肋骨が硬直すれば力は伝達できない。

2010年7月19日月曜日

コダック賛歌


 いつもブログを見てくれている人から、オフラインにて「おみゃ〜の使っているフィルムの情報かけや(゚Д゚)ゴルァ!!」との大変ありがたい意見を頂いたので、折角だから紹介。


 はい、400TX。とどのつまりコダック・トライXの400というヤツです。写ってるヤツは100フィート缶とか長巻と呼ばれているもので、この中に100フィート(約30メートル)の生フィルムが入っているのね。それを右に写っているフィルムローダーという機械を使ってフィルムのパトローネの中に巻き込んでゆくわけ。
 この方法だと36枚撮りフィルムを1本当り100円から120円という低コストで作ることが出来る。同じフィルムのパトローネに詰められているものが3本パックで大体1200円だから1本あたり400円というのからすると、かなり安く作れるということが分かるっしょ。
 以前はフジのネオパン・プレストを使っていたのだけれど、少し前に長巻が製造中止になってしまい、悩んだ挙句「世界でこれだけ使われているのだから」と最初は無理やり自分を納得させつつ使っていた。
 ところが慣れてみると流石にベストセラーだけのことはある。プレストに比べると粒子は粗いように思えたのだけれど、それが丁度いい力強さになって表れてくる。なにより筆者のようにスキャンしてapertureでレタッチするという向きには非常に使いやすいね。レタッチ耐性が高いように思えるのだよ←ただし適正露光させたカットのみ。なんというか情報の残り具合がしっかりしているというか、シャドーなどが荒れたとしても、許せる荒れ方をするのだよね。
 もちろんプレストがダメというわけじゃない。これは単に好みの問題だと思う。プレストは端正に映るものだから、今でも人物を撮るときなどは恋しくなったりもする。
 とはいえ、そんなこんなでこのフィルムには完全に惚れてしまった。場合によってはコイツと心中だね。生産中止されたら本当に銀塩写真をやめてしまうかもしれない。


 コダックさん、俺は人にできるだけ物事を頼まないでやってくるようにしていたのだけれど、こればかりは土下座してでもお願いしたい。
 どうかトライXのフィート缶を生産中止になんてしないでください。
 

2010年7月18日日曜日

月見て跳ねる。


Cosina Bessa-R Canon 50mm f1.8
Kodak Tri-X400 1:1希釈現像

 鎌倉は明月院にて。
 晴れたとはいえ室内は暗かったのでシャッター速度は30分の1。さすがにブレたね。
 一眼レフとレンジファインダー機の一番の違いって、その保持方法だと思う。レンジファインダー機はレンズが細いからがっしりと構えられないのだよね。どうしても左手の掌がカメラ本体から浮いてしまう。
 これを防止するためにきつめにしたストラップで肩とカメラを固定、更にファイダーを眼窩に当てて確実に保持するのだけれど、それでも一瞬で狙おうとすると失敗することが多いね。
まだまだ修行が足りないなぁ。

2010年7月17日土曜日

矛盾の走水






さねさし 相武の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも
弟橘媛命









Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45mm f3.5-4.5

 愛する人のために海に身を投げるという行為は果たして正しかったのか。

 俺が身を投げる側なら、きっとそれも甘受する。
 俺が残される身であるなら、気が狂ってしまうだろう。


 では、どうすれば?

2010年7月15日木曜日

悪い子はいねが〜!?

Nikon F2 Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X D76 1:1希釈現像

 自宅前の公園にできた遊具。どう考えてもこれを見て泣き出す子の方が多いような気がする。
 見ようによってはローマの休日で有名になった真実の口にも見えなくもない。あれば手を食いちぎられるだけだったが、こいつには体ごと喰われるということか。クワバラクワバラ。。。
 「嘘をつくのは悪いこと」とは何歳ぐらいの時に身につく概念なのだろうか。ロシアの一部地域ではこれを明確に教える文化のないまま数百年を経過した結果、嘘発見器すら騙し通す人材が大量に出現したそうで、冷戦時のスパイとして重宝がられたという話も聞く。
 ということは、善悪の判断基準は後天的なものであって教育されて初めて身につくもの、さらに言えば「善良であろうとする姿勢」は元来人間に備わっているものではないという事になる。
 性悪説とまでは言わないが、少なくとも自分や自分の子供達に如何なる教育がなされているか、なされてきたかを常に注意深く見守ってゆく態度は忘れてはいけないと思うね。

2010年7月13日火曜日

原風景 雨

Nikon F2 NIkkor Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 雨が好き。
 理由は知らない。

2010年7月10日土曜日

くだらない決意だが、こういうのが俺にとっては重要。

Nikon F2 Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 ようやく夏になり始めたね。春に生えてきた芽もだんだん大きくなった。種類も分からんけど、強く育ってくれたらそれだけで嬉しかったりする。
 四季がちゃんと存在しているというのは重要ね。冬があるからこそ春や夏が来ただけでも楽しくなるのだ。
 きっとこの夏も楽しくなるぞ♪いや、するのだ♪

2010年7月8日木曜日

仁義なき猫 「論理学的に見る神の不存在の証明」編



ねこ
「神様ってどんな存在?何をしたの?」

俺 
「世界を作ったって事になっているね」

ねこ 
「世界って何?」

俺 
「俺達を取り巻く全てのことさ」

ねこ 
「物理学の世界じゃ、11次元まで存在するってことになってるけど?」

俺 
「その11次元も作ったのさ」

ねこ 
「天文学の世界じゃ、宇宙の先には空間は存在しないって事になっているらしいね」

俺 
「うん、でも空間を形作るエネルギーが存在してる」

ねこ
「じゃぁそのエネルギーの存在も?」

俺 
「神様が作ったってことになるね」

ねこ
「そのエネルギーの向こう側、あるいは裏側には何があるの?」

俺 
「何も無いよ」

ねこ 
「じゃぁ世界ってのは正しく『全て』のことなんだね?」

俺 
「そういうことになるね。世界は『全て』だから外側はない。想定していた世界に外側が見つかったとしたら、それもやっぱり世界という概念の中に含まれてしまうからね」

ねこ
「うん、世界に外側はない。ということは、世界の外側には何者をも存在しえないってこと?」

俺 
「その通り」

ねこ 
「神様が世界を創るためには、世界がないという状態がまず存在しなければならない。でも世界には外側がないから、そんな状態は存在しえない」

俺 
「存在しないところには何者をも存在することは出来ない」

ねこ 
「ということは、神様は存在しえない」

俺 
「うん、神様は存在しない。そう断定して間違いなさそうだね。すっきりした♪」


・・・数分後・・・
俺 
「・・・こんなこと言ってたら神様のバチあたらないかな?」

ねこ 
「あたるかもね。知らんにゃ、だってオレは猫だもんにゃぁ♪」

俺 
「ズルイよ、それ(・´з`・)」

2010年7月6日火曜日

存在そのものの意義。

Nikon F2 Nikkor Ai-s50mm f1.4
Tri-X 400 D76 1:1希釈現像


「ただそこに居る」ことの重要性。
「在り続ける」ことの尊厳。


2010年7月5日月曜日

全ては過ぎ去る。

世界が、自分の部屋ですら、
自分を通りすぎていってしまうように感じたことはあるかい?
olympus XA2 Zuiko 35mm f2.8

路地裏をゆくのが大好き。
飲み屋街であれ住宅地であれ、そこには剥き出しの生活ががある。
だから例えば旅に行っても、本筋からそれて裏道ばかり歩く。
でもそうやって歩く道は、決まって何処か置き去りにされた者の哀愁に満ちている。
それがたまらなくいとおしく、どうしようもないほど悲しい。


2010年7月3日土曜日

ギンギンギラギラ夕日が落ちる〜♪


Canon FTB  
FD50mm f1.4
fuji provia 400

最近、古いフィルムをスキャンすることに妙にはまっている。
撮影当時は何気なく撮ったものでも、今になってみると新しい発見があったりするからね。
自分が死んで何十年も経ってから他の人が俺の写真を見たとき、面白いと感じられるのはもしかすると何の変哲もない街並みとか、そこに映る普通の人々なのかもしれない。

2010年7月1日木曜日

Nikon F2  ai-s50mm f1.4

根付。鎌倉で発見。
あんま売れてなかった。

実は俺、別のところで買った根付を財布につけて活用中。
キャンプ用の細いロープを編んで紐を自作、財布からたらして先端に根付をつける。
ベルトに根付を通してしまえば財布の脱落防止に最適♪
カラビナなどそれ自体に構造を持つものを使っているわけではないので、シンプルで壊れるところもない。
ぜひお試しあれ(´∀`)

2010年6月30日水曜日

製品本来のご使用方法をお守り下さい。

Cosina Bessa-R  canon 50mm f2.0
Tri-X400  
1/250 f5.6



観音崎にいた昆布とりの人。
俺は昆布苦手。
しかしこんぶ茶は好き。
それもお湯に溶かすのではなく、粉のままご飯に少量かけて、ふりかけのようにして食べる。うめこんぶ茶なんつったらもう高級料理の如き味わいに。
こんぶ茶のこういう使い方ってもっと一般的だと思っていたのだけれど、案外皆やった事ないみたいね。
周りの人は「気持ち悪い」というのだけれども、実際に食べさせるとハマる人急増。ダシの味と適度な塩分で何杯でもいける。
ぜひどうぞ。


それはいいとして今日の本題。
 実はこのカット、撮影の際に勘違いして、2段半程多めに露光かけてしまったものなのだよね。
 フィルムの最後の方だったので、残りは通常通り撮影してから、現像する時にも何ら特殊なことをせず、スキャン及びレタッチの段階で修正。
 案外うまく写っているものだね。というか、2.5段分ということは露光量にして6倍多く光が当たっているということだけれど、それでもちゃんと写真になってくれているということに感動。
 ・・・もうAEとか要らないんじゃ?もっと言えばシャッター速度も低速・中速・高速の三つくらいあれば事足りるんじゃ?
 以前お遊びで買ってみたスメナ8mというロシア製のカメラがそんな感じのいい加減っぷりだったけど、結構良く写っていたしなぁ。

2010年6月29日火曜日

墨染の紫陽花

Nikon F2  Nikkor ai-s 50mm f1.4

 鎌倉は明月院へ行ったので紫陽花などをどうぞ。
 
 たとえ毎年同じ紫陽花を見たとしても、咲いた花は毎年違うからね。その度毎に新しい発見がある。
 そういうのが、楽しい。

2010年6月27日日曜日

アナログ的モノクロモード。

rollei35s
sonnar 40mm f2.8


 今日はまた例によってモノクロ。とはいえ今日のはカラーフィルム(Fuji superia400)で撮影した写真から作った偽モノクロだ。


 拡大して見てもらえると分かるのだけど、Tri-X400辺りで撮影したものと異なって粒子がない。
 これはモノクロフィルムが黒化した銀粒子を利用して画像を構築するのに対して、カラーフィルムではその銀を取り除いてしまうために粒子として残らない、ということに因るのだ。


 こうしてみると、デジカメのモノクロモードで撮影したものにちょっと似ている感じがするね。最近はデジタルで作られたモノクロ写真もたくさん出てきたのでだんだん見慣れてきてしまい、個人的にはこういう画像もアリかなと思えてくる。

2010年6月25日金曜日

対話。

金魚
「俺たちはね、純粋な競争原理の中で生きてるの。ワイルドなの。」


「水槽の中でも?」

金魚
「限られた環境の中でこそ競争は激化するの。」


「苦手だな、そういうの」

金魚
「不条理なルールでも受け入れなきゃならないの。そこに疑問をもっちゃいけないの。」


「・・・悲しいことじゃない?それって。」

金魚
「そんな感情、持っちゃいけないの。」

2010年6月23日水曜日

寓話。







He doesn't save broken toys.

たとえば君は病院で目覚める。
見回すと周りには何百というたくさんのベッドが並んでいて、そこに寝かされた人々に目覚める様子はない。
皆一様に幸せな夢を見ているようだ。

君は唐突に気づいてしまう。
部屋の向こうからベッドごと人々が順番に消えて行き、それは絶対に逃れられない運命であると。


さて、考えてみてくれ。
 君は周囲の人を起こすべきか?
 もし起こすだけ起こして、そいつが「起きたくなんてなかった」と泣きながら訴えてきたらどうするのだ?
 君は、周囲の人を恐怖のどん底に突き落とす権利を持っているのか?

 答えなんて人それぞれだ。
 だがひとつだけ確実そうなことがある。

 神様は、目を覚ましてしまった者などもう愛さないということだ。

2010年6月20日日曜日

無心という技術。

olympus E-500
Zuiko Disital 14-45mm 


 筆者は合気道という若干マイナー(?)な武道をやっているわけだが。今日は仲間の演武会を見に行ってふと思った事など。


 今日「武道」と呼ばれる一群の競技は、そう呼ばれる以前の戦闘技術、つまり剣術や柔術といった「武術」に端を発する。
 「武術」とは、要するに戦場を如何にして生き残ってくるかという、ただそれだけの事を何百年もかけて徹底追求し続けたところから生まれた技術群だ。
 そして各流派は「生き残る」という目的達成のための最も確実な手段として、「敵対勢力の完全な無力化」を追求した。

 そのような時代においても、やはり精神性というものは尊ばれていたようだ。例えば多くの剣術家は「無心」という精神状態を大切にした。

 とはいえこれは現代の武道において尊ばれる精神性とは、ちと意味が異なるようにも思う。
 たとえば「先の先」という概念があるが、これを実現するためにはそれこそ頭を空っぽにして(=無心になって)、相手が攻撃意志を持った瞬間にこれを感じ取り入身してゆかねばならない。
 とどのつまり、ここでは無心という精神状態を「勝つための技術」として利用しているわけだ。

 筆者は合気道とは別にエアライフルによる射撃競技もやっているわけだが、ここでも形を変えて「無心」というものが重視されるように感じる。
 「俺は三脚、銃を支えるための三脚。」「音が聞こえてくるけど、俺には関係ない。俺は機械。」と自分に言い聞かせ、そして言い聞かせたことも含めた外界の全てを忘れることで初めて思ったところに弾が飛んでいく。
 ここでもやはり「頭からっぽ」状態を「当てるための技術」として使っている。

 いずれにしろ、「無心」は「勝つため」に必要な精神的技術であるように感じる。
 
 さて、今は平和な時代だ。「勝つため」という目的でこういう精神的な技術ははっきりいって必要ないかもしれない。皆が皆何かしらの競技をやっているわけでもないしね。
 とはいえ純粋な技術体系でしかなかった「武術」が、精神性を重んじる「武道」に変遷したことでより多くの人に親しまれ、それと同時に上記のような精神技術をも広めることが出来るならば、あるいは武術とは異なったもっと別の場所でも役立つかもしれない。
 たとえそれが生活の中にある何気ない所作であったり、あるいは普段の仕事の中でふと出てくるものであっても良い。
 そういった領域においても「無心」に代表される精神的技術の利用可能性を広めたという点で、「武術」から「武道」への変遷はとても重要であり、また偉大な転換であったと思うのだ。


2010年6月17日木曜日

色ってヤツは厄介なシロモノで。

Cosina Bessa-R  Canon 50mm f2.0
fuji superia 400

 久しぶりにネガ・カラーフィルムで撮影したものをアップしてみるのですよ。
 カラーについては既にデジタルがフィルムを凌駕していると認識しているだけれど、こうしてみるとなかなかどうして、俺好みの色になってくれるわぁ(´∀`)

 よく、「ネガ・カラーにはオリジナルの色というものが存在しない」という言い方をされる。これはかつてフィルムカメラ全盛時代において、ネガをプリントする際には現像所で焼付けした人の好みや価値観によっていくらでも色合いを変えられるというところに起因したみたいだね。
 実際、焼き増ししてみたら同じネガからなぜこんなに?と聞きたいくらい違った雰囲気のプリントを手にすることもあった。

 ところがだ、ことデジタルで写真を管理するようになるとネガカラーってのも結構オリジナルな色合いを持っているということに気付かされるよ。
 これは自分でもRAW現像などをやりだしてわかったことなのだが、デジタルは現役でフィルムを使っている人間から見れば異常とも言えるほど自由度というか、レタッチ耐性が高いと感じる。
 だってデジカメなら後からホワイトバランスはいじれるし、彩度やシャープネス、コントラストも思いのまま。俺みたいなモノクロスキーも安心の粒状性追加プラグインなんてものまで登場する始末。

 一般的にはフィルムの持つラチチュードの広さに着眼して、「デジタルももうちょっと頑張ってくれれば」という意見を聞くことが多いのだけど、ラチチュード云々という話と、レタッチ耐性という話はまたちょっと異なるようだね。
 デジタルと比べれば、フィルムをスキャンしたものはレタッチするにも限界があって、スキャンの時点である程度の色合いなどは決定されてしまうし、やりすぎるとあっという間に破綻してしまう。
 そりゃデジタルでもいじりすぎれば当然破綻するのだけれど、破綻するまでの許容量が異なるのだよね。フィルムのほうが狭いように感じる。
 
 ところが逆に考えれば、レタッチ耐性が低いと言うことはフィルムが要求してくる色からそれほどかけ離れてレタッチ出来ないと言うことでもあるわけだから、それを個性と呼んでも良いような気もするのだよね。
 実際、例えば上にアップした写真と同じ色を、俺の持っているE-500というデジタル一眼レフで再現してみろと言われたら正直苦労すると思う。
 
 こうして見てみると、ネガはネガとしての十分な個性があると評価することも出来るのではないかな。
 筆者はことカラーに関してはこのところデジカメ一辺倒だったのだけれど、ネガ独特の色が好きだと言う向きには積極的にこれを採用してみるのも一興かもしれないと思ったね。

2010年6月16日水曜日

管理したければ放任せよ、と。


 むかーし撮った写真を貼ってみる。
 たぶん12〜13年前位になるか。横須賀・馬堀海岸にて撮影。フィルムはPROVIA400、機材はCanon FTB FD50mm f1.4。
・・・あ〜、俺このころから標準レンズ馬鹿だったんだね。

 馬堀海岸は整備されて、今ではこの写真のようなテトラポッドの積み重なる海岸線ではなくなってしまった。

 自分にとって好きな場所を探ってみると、「なんの意味もない場所」という共通点が浮き上がってくるのだよね。当時の馬堀海岸もそんな場所の一つだったりする。
 日本の公園や娯楽施設などは、とかく「ここでリラックスしろ」とか「ここで楽しめ」と言わんがばかりの施設が多すぎる。
 そういう予め意味を付与された場所というのは利用する個人に自由を許さない。「自由」というのは行動の自由ではなく、精神の自由ね。
 「なんの意味もない場所」だからこそ「何をしても良い」と思えるし、「何をしても良い」からこそ「何もしないでぼーっと海を眺める」だけのことが本当に楽しくなる。

・・・天邪鬼の理屈であると言うことはわかってるんだけどね。

2010年6月12日土曜日

知性の痕跡。

olympus E-500  Zuiko Digital 14-45mm
RawをApertureにてモノクロ化

 現代に生きる我々には、デジタルデータであったり紙媒体であったりと物事を記録する方法についていくつもの選択肢がある。ではいかなる手段によることが、情報を出来る限り長く後世まで残すことが出来るのか。
 以前、写真の保存性の項で少し検討したが、今回はまた違った視点、「写真以外の物も含めた上で人が管理しない場合」に焦点を当てて考えてみたいと思う。
 
 これは純粋に記憶媒体の物理的耐久性の問題に直結する。人は物事を記録する際に何がしかの物体にこれを焼き付けるという方法を採るわけであるが、当然この物体の特性によってその耐久性が異なる。
 そしてその特性は、シンプルなものほど残り易いということが出来そうである。つまり機械を見てみるとわかるが、複雑な機械になるほど故障の発生率も増加し、また故障した際の修理も困難になる。

 となれば、仮に今この瞬間に人類が滅亡したとして真っ先に呼び出せなくなる媒体は一群のデジタルデータであるといえよう。
 デジタルデータはそもそもが人間の目からは判別できない0と1による信号で構成され、これを読むための装置を必要とする。またDVDやMOなどの単純なディスク媒体ならまだしも、HDなどはそれ自体にドライブとしての仕組みを有している。
 このようにデジタルデータは記録媒体の他にそれを再生するシステム全体で生き残っていることが保存ために必要な要件であり、これは絶えず機器類を適切な状態に保つ人の存在が不可欠となる。
 
 ではアナログデータはどうか?
 これはより単純に、「シンプルなものほど生き残る」と言える。
 例えばフィルムはポリエステル上に残された銀の粒子による画像だが、画像というからには経年劣化やカビの発生によって細部がぼやけ始め、やがて何が写っているのか分からなくなる時が必ずやってくる。
 そこに焼き付けられた情報が、画像という細かな再現を必要とするものであるが故、もう少しシンプルな情報である文字や記号などよりも再現不能となるまでの期間は短くなってしまうことが予想される。
 
 更に事を写真などの画像ではなく、他の情報にまで広げてみよう。これによって記録媒体の選択肢を広げる事はできる。つまり文字情報であれば紙に書きつけるという方法も採れる訳だが、この場合には紙自体とそこに書きつけられたインクという二者の耐久性を考慮する必要がある。
 とはいえ、フィルムほど神経質にならなくても良さそうである。古代のパピルスから始まり羊皮紙を経て近現代の紙にいたるまで、雨風にさらされなければ数百年は生き残ることがわかっている。インクも炭素系のものや鉛筆を使えばかなりの年数持つ。炭素と言うのは比較的安定した化学的特性を持っているのためである。
 ただしこれには条件がある。紙が風雨に晒されず、また過度に乾燥したりもなく、当然焼失したりの災害からも守られている必要がある。しかしこれにしても、先に見たデジタル機器よりは簡単な話だろう。単に頑丈な建物や容れものを用意すればよい。当然、当該建物やら容れものの耐久性がまた更に文段となろうが、石の建築が木の繊維でできた紙よりももろいとは言えないのではないかな?
 
 では更に条件を過酷にして、雨風に晒され、それでも何千年・何万年と情報を維持することの出来る媒体はないものか?
 あるにはある。物体に直接刻みつけるという方法がそれである。
 とはいえこの方法は刻みつけるべき物体の化学的特性を理解していなければならない。例えば金属は駄目だ。多かれ少なかれ腐食する。
 結論から言えば自然界に最初から存在する物体、つまり石を選ぶべきだろう。その中でも特に摩擦に強い種類のものを選んで刻みつければよい。古代の遺跡を見るとわかるが、数千年を経ていまだに文字を読むことが出来る。
 とはいえ、これにしたって完璧な記録方法とは言えない。地球上には生物が存在している以上、常にその侵食を受けるからだ。我々の住む街だって、整備されなければ数十年で植物に埋もれ、数百年すればそこに街があった痕跡そのものが消滅するだろう。
 また火山など大規模な地殻変動による極端な熱に晒されたり、あるいは流水の中に長期間晒されるなどをしても、石に刻まれた情報が融解あるいは摩耗し消滅する。

 つまり一番信頼できる石に文字を刻み込むという方法にしても、周囲の環境によって保存が左右される事には代わりはなく、単にこの方法が他の手段よりもより過酷な環境に耐えうるというだけの程度問題でしかないことがわかる。
 
 この世界に不変のものが存在しない以上、人間もやがては必ず滅びる時がやってくる。
 最も原始的な、石に刻みつけた文章だけが残るとしたら、今のうちに現代の技術をいくつかでも良いのでこの形で残しておくべきのような気がする。数式であったり、単純なプログラムを01で書き連ねるのもよいだろう(これは流石に無理か(;´∀`))。
 何かしらが残ってさえいれば、そこにそれなりの知的生命体が存在した証拠になるだろう。
 あとは仮に見つけるヤツが出てきたとして、ソイツの想像力にお任せする。
 
 えらく遠い話のように思える。しかし人という存在がいずれ必ず居なくなるというのは、おそらく事実だ。
 毎日こんなことを考える必要はないけれど、たまにはこういったことに思いを巡らせてみるのもよいかな、と思った次第なのである。
 
 以上、今宵のお話はこれまで。

2010年6月11日金曜日

その向こう側に何が見えるか?

Cosina Bessa-R  Canon 50mm f2.0
Kodak Tri-X4oo 
D76 1:1希釈現像

 芸術でも単なる街の風景でも何でも良い、新たな刺激或いは表現を受けとった人は、過去における自らの経験により感じ考えてきたことを基盤とし、新たになにがしかの感情や思考を抱き且つ発展させる。
 そして人は、誰一人として全く同じ生を歩むことはない。
 とすれば、同じ対象を見てもそこから受けとるものは各人において全く異なってくる。
 俺の見ている世界と、あなたの見ている世界は常に異なる。


 さて、今あなたには何が見えているのか?