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2010年8月19日木曜日

(改めて)深さ無制限の世界へのお誘い(´Д`)

Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 カラスってのは仲間意識が強いらしく、仲間の死体が吊るされているところを避ける傾向にある。これは「仲間がやられた→次は自分かも」という認識が働くからと考えるのが一番自然と言えるだろう。
 実に理性的な判断であると思う。

 一方で、フランス革命の時代から人間の本質は理性だと一応は説明されてきたわけだけれど、頭に血が登って後先考える事無く違法行為に走る輩の多さや、自殺願望を持つ者の多さからするとそれについても懐疑的にならざるを得ないね。そもそも自己保存欲求は生物として最も基本的な要素のはずなのに、なぜそれに逆らう行動を自ら好き好んでとろうとするのか。

 そう疑問を持った人たちもたくさんいたのだろう。20世紀に入ってからの構造主義者たちは「人間の本質は自然界からのズレだ」「人間の本質は混沌だ」と主張してきた。フロイトもまた「人間はホモ・サピエンス(理性の人)ではなく、ホモ・デメンス(錯乱せる人)だ」と主張する。だからこそ人間は本来であれば到底選択し得ないような愚かな行動をとってしまうのだ、と。
 
 こっちの説の方が遥かに説得力があるように感じる。
  理性と混沌の双方をその内部に持つ存在。「自己矛盾を持った存在」こそが人間の定義だとするならば、その自己矛盾は人間が人間である限りずっと解決できないままついてまわる。
 
 やれやれ。俺達は実に奇妙な生き物として生まれたな。
 でも折角だからこの状況、俺は出来る限り考え、行動し、楽しんでみようかと思う。
 モニターの前のあなたもご一緒に如何ですか?

2010年8月17日火曜日

人の記憶と解像度


たくさん食べて、たくさん夢を見る。なんと平和な生き物だ。
はぅ、やはり猫に産まれてくるべきだったか←選べたのか?それf(^ー^;

能書きはこれくらいにして写真について。
コイツら全く動かないので同じ構図で何枚も撮影できたのだけれど、一番ピントの合っていないこの写真が一番イメージ通りだった。
いままで俺は解像度命なところがあって、カメラやレンズ或いは作例を選ぶ際にも「如何に細かいところまで、かつ四隅まで精密に描写できるか?」という点を重要視していたのだよね。
ところがこの写真、まったくピントは合っていないし絞りも開けすぎてボケボケ。本来なら失敗に属するものであるにも関わらず、当初予期していたイメージ以上にこの子らの普段の様子を描写してくれている。
作品としてダメダメだろうと、他の人がなんと言おうと、俺はこの写真が好き。

バロック期の絵画などは精密描写が信条という部分が大きいけれど、それが時を経て近代、特に印象派になると全体にぼやっとした作風になる。高校生の頃に俺はそれを見て「劣化だ」としか感じなかったのだけれど、今になるとむしろそういった画像の方が頭の中のイメージに近い(俺にとっては)と言うことを実感として認識してきた。
人間である以上、視覚から受けとった情報は主観というフィルターを通して変化することが避けられないわけで、良きにしろ悪きにしろその人にとって都合の良い事実にねじ曲げられて記憶される。
あとはそれを如何に表現するか?というスタンスの問題で、精密描写のように「事実を記録し、見た者が各々で主観を形成しろ」とするか、印象派のように「自分の主観において変容した情報こそが自分にとっての真実なのだから、それを他者にも提示するべきだ」とするかなのだろうね。
写真というのは被写体が存在し、それを光学的にとらえ化学的にフィルムに焼き付ける手段であるから、本来であれば後者のような表現には向かないものである筈なのだけれど、偶然にこういった写真も撮れる。
「偶然性」という、絵画には存在しにくい要素をかますことにより、奇しくも近代絵画に見られる作風と類似の効果を得られるということか。

こういう写真も好みの内に入ってきたからといって狙って撮れるというものでもないし、自分の撮影スタンスを変えるつもりも毛頭無いけど、新たな価値観を得る事が出来、またこういったことを考える機会が持てたというのはとても貴重なことだなと感じる。
これからも色々な発見をしていきたいねぇ♪

2010年8月16日月曜日

この眼。

Cosina Bessa-R jupiter 50mm f2.0
Kodak Tri-x400 D76 1:1希釈現像

生物にとって世界は常に敵対する存在である。
人間どもはその事を忘れすぎているのではないかね?
そう言われている気がした。

2010年8月14日土曜日

天使を捉えるために

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-54mm

上手く張ったなぁ。素直に感心する。
美しく、気高く、誇りにさえ満ちている。
唯一の問題は、コイツが俺の干した洗濯物同士の間に構築されてしまったということなのだよなぁ。。。

2010年8月13日金曜日

こんなんなっちゃった(´∀`)

Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 d76 1:1希釈現像

ここまで連結されているともうワケが分からなく。
とはいえちゃんと意味があるのだろう。もしくは設計したヤツが馬鹿で必要以上に複雑にしてしまったとか?
むしろ後者であることを望みたい。世界は常にシンプルであってほしいからね。仮にそのシンプルさが人にとって酷なものであったとしても、偽って綺麗に見せるよりは真実を認識できたほうが俺にとっては遥かに嬉しいからね。

2010年8月12日木曜日

だからどうした!

olympus E-500
zuiko digital 14-45
この数日は個体の存在意義について考えていたのだけれど、もうそれもやめることにした。
俺が小さな社会システムの内包物に過ぎないとしても、そこで感じてきた感情や考えてきた事柄は事実として存在する。
俺にとっては社会がどうあろうと実はあまり関係ないのだね。

ふと、ショスタコーヴィチの第7番(だったかな)を思い出したね。国が戦争で勝とうが負けようが一国民にとってはイベントの一つでしか無い。「お、勝った?じゃぁビールでも飲んで楽しもうか」という程度の気持ちしか沸き上がってこないもんだ。
社会の枠から外れてしまったといえばそうなのだろうけど、それこそがむしろ人としてあるべき姿であるように感じる。

2010年8月11日水曜日

この考え方が頭から離れない。。。

珊瑚は一つ一つの珊瑚虫が寄り集まって全体としてサンゴ礁を形成し、そうやって初めて生存してゆくことが出来る。それが我々にとってみれば全体を一個の珊瑚礁として認識される。
同時に人もコミュニティを作り、それに帰属する。そして自分たちの済むべき家を作り、働く建物を作り、生活の殆どすべてをその内部で完結させる。
これは客観的に見た場合に、珊瑚礁と何ら変わらない生活方式であると言える。
となれば我々はやはり、社会という大きな生き物の、代替可能な細胞のひとつに過ぎないのだろうか。
やれやれ。

2010年8月8日日曜日

てーげー主義。

Olympus E-500 
ZuikoDigital14-45mm f3.5-4.5
 
 先行き不安な雲の波。
 まぁ、なんとかなるっしょ。

2010年8月3日火曜日

蟻から人間まで

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45

 蟻というのは社会的生物。つまり集団で行動し、群れ全体における成功を目指す。
 このような生物においては各個体の個性や行動は単に群れ全体における功績の礎のひとつとしか評価されず、仮に同様の行動をする他の個体が存在するならばいくらでも代替が効く。
 「産めよ育てよ」で群れの規模が大きくなればなるほど、そこにはより多彩な個性を持つ個体の存在可能性も高くなるわけで、その分群れ全体としての発展可能性も高くなる。
 とどのつまり、こういった生物においては群れそのものがひとつの生物として認識されるべきで、「個体」というのは群れを形成する数のひとつに過ぎない。ある個体が死んだとしても、いうなればそれは身体の細胞の一つが死滅したと同程度の意味をしか成さないことになる。

 人間もまた社会的生物のはしくれである。
 とすれば巷でよく言われる「個性」やら「自主性」やらも、結局はその人が属する社会、もっと言えば人類全体の発展性に寄与するコマのひとつに過ぎないと考えるほうが遥かにスマートだ。
 また社会はそこに住まう者たちに夢を与えることで、その思考を統制し全体としての発展に寄与する方向に導く。「パイロットになりたい♪」「看護士さんが夢です♪」などという子供たちの無垢な夢も、結局はそうやって形作られる。仮に社会的に容認できないような変な夢を持つ子が現れたとして、それもまた「社会全体の可能性を広げる」ための布石の一つとして評価されることになる。
 これをより直接的に言い放ったのが社会主義。資本を持ち出して「金を増やせよ」という方向付けで「全体としての発展」という真の目的を覆い隠したのが資本主義という穿った見方もできる。

 さて、どうだろう。これではあまりに残酷ではないか。正直、唾棄すべき見解だと思う。
 だから俺はこれを否定し、脱出しようともがいた時期もあったのだけれど、いまだに良い方法が見つからないでいる。
 「視点を変えればいい。世界は見方によってなんとでも変わるのだから、自分を中心に考えれば全て氷解する」という人もいる。傾聴に値する。しかしこれすらまた、社会がその目的に疑問を持たせないように予め用意した「物語」の一つであるという見方もできるのだ。

 困ったね。本当に困った。どう考えていけばよいのだろう。。。