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2011年9月1日木曜日

Apertureで銀残し

MacのAperture3で「銀残し」という手法を再現できないか挑戦してみた。
この「銀残し」というのはフィルムの現像方法の一種で、漂白する際に銀粒子を完全には洗い落とすことはせずに放置するという方法。
黒が締まって独特の陰影が出るのだよね。わかりにくい人は映画の"seven"などを見てもらえるとどんな感じかをつかみやすいと思う。
で、この銀残しなんだが、最近になってpentax K-5のエフェクトとしてデジタルの世界にも登場し、結構評価が高い様子。
そこで、ウチのAperture3でも同じことが出来ないかと挑戦してみたのが上の画像だ。

・・・何か違うが、、、でも俺は結構好きかも。
デジタル臭さが消えて、なんとなくコダクロームを彷彿とさせるような色調になる。

やり方は至極簡単。
コントラスト→白飛び、黒潰れするギリギリのところまで上げる。
再度→通常の半分くらいまで落とす。
というのが基本的な設定だ。
あとはレタッチする写真に合わせて、強調したい色があればその部分だけ選択的に上げてやる。

新たな表現の幅が広がるかも知れないよ。
皆さんも是非挑戦してみてくださいな♪

2011年8月23日火曜日

携帯用アイデンティティ保護殻

俺はキャンプ大好きだし、バイクで日本中を旅してきたのだけれど、基本的にはひきこもりなのだよね。
何処に行くにも一人で完結できるし、かつそれで充分に楽しい。
どれだけ遠くへ行こうとも、結局自室内で過ごしているのと変わらないようにすら思える。
アウトドア系ひきこもりだな、とどのつまり。

2011年7月12日火曜日

環太平洋漁業選手権大会

先日、とある文化会館に寄ったのだけれど。
「マグロトーナメント」ってなんだろう?
見に行ったら、50人くらいの人々が酒飲んで大騒ぎし、何をやっているかはよく分からないが、
試合的なものを開催している様子。

・・・やっぱ平均台の上で冷凍マグロで殴り合うとか?落ちるとそこは泥水プールとか?飛び道具のトビウオとか特殊武器のフグ&ハリセンボンとか、ひと試合に一度だけ太刀魚の使用が許されているとか?(以上、俺の勝手な想像)

ちなみに今日もちょっと文化会館寄ったのだけれど、特に変わったものは開催していなかった。
カツオ・チャンピオンシップとか、クジラ・コンペティションとか、サザエ・
トライアルとかを期待していたのだけれど。
残念。

2011年7月9日土曜日

2011年5月10日火曜日

社会契約論の矛盾に関する一考察


 自然状態において、人は他者の財産を際限なく奪い争う「万人の万人に対する狼」に陥る。ここからの脱却のため人は理性的選択の結果として国家を作り、自らの武器をこれに預けた。こういう考え方を法律の世界では社会契約論と呼ぶ。
 
 む?・・・疑問が浮かんできたぞ。「理性=武器の放棄」という考え方は是か否か?
 ということで考えてみませう。
 仮にABという二人が銃をお互いに向けあっていたとする。この状況では、両者の行動の帰結は次の4種類に場合分けされる。
 すなわち、
① Aが死んでBが生き残る
② 双方とも生き残る
③ 双方が死ぬ
④ Bが死んでAが生き残る
 である。
 さて、まずAにとって最良の帰結から順に見てゆくと、①Aだけ生き残ってBが死ぬ②双方が生き残る③双方が死ぬBだけ生き残ってAは死ぬ、となる。
 対して、Bにとって最良の帰結から同じように見てゆくと、④Bだけ生き残ってAが死ぬ②双方とも生き残る③双方とも死ぬAだけ生き残ってBは死ぬ、となる。
 ここからすれば、いずれにしても②の「双方とも生き残る」は両者にとって次善の帰結としてしか存在し得なく、決して最良の帰結とはなり得ない。
 話を戻そう。
 社会契約論では理性的選択によって双方ともが②「双方とも生き残る」を選択し、それを実現する手段として国家を作りこれに武器を預けたのだ、と説明する。
 しかし上記のような状況において、人は果たして理性的選択とやらによって次善策を採用することを良しとするだろうか。
 他者も自らと同じ「狼」であるということを前提とするならば、理性はむしろ自分にとっての最良の帰結(Aにとっての①、Bにとっての④)を如何にして実現するか?という方向へ向き思考すると考えるのが自然であるように思える。
 
 こうなると次には、
① Aだけ武器を持ち続け、Bだけ捨てる
② 双方が武器を捨てる
③ 双方が武器を持ち続ける
④ Bだけ武器を持ち続け、Aだけ捨てる
 という4択に直面する。相手にだけ武器を捨てさせることが出来れば、最初の4択における最良の帰結、すなわち「自分だけ生き残る」の実現可能性が飛躍的に向上するからである。両者の間では、表面上「武器を捨てる」と言っておきながら、実は裏で「相手にだけ武器を捨てさせて自分は武器を持ち続ける」という状況を如何にして実現するかに焦点が置かれる事になる。
 つまり事の位相が「如何にして相手を殺すか」から「如何にして相手に武器を捨てさせるか」へと移転しただけで、4択は形を変えて存在し続け何ら解決にたどり着かない。どころか、状況はそもそも最初に提示された4択からひとつも進展していないとも言える。
 同時に、人が理性的存在であればあるほど自分にとっての最良の帰結を永遠に選択し続けることになり、社会契約論の説く国家はいつまでも発生しないということになってしまう。
 ううむ、堂々めぐりだね。やれやれ。

2011年3月21日月曜日

旅の重さ。


We knew the world would not be the same.
A few people laughed, 
a few people cried,
 most people were silent.
I remembered the line from the Hindu scripture, the Bhagavad-Gita.


Vishnu is trying to persuade the Prince that he should do his duty and to impress him takes on his multi-armed form and says, "Now I am become Death, the destroyer of worlds."   
  
J. Robert Oppenheimer

   


 数年前、ふらっとバイクで旅に出てみました。それまで北海道までは行ったことあったけど西日本はまるで未踏だったので、せめて学生の内に見ておこうと。横須賀から西へ西へとひた走り、最終的に九州最南端の佐多岬へと到達するまで、全て自走してみました。
 
 広島はその旅の目的地のひとつ。
 もちろん原爆博物館も見てきましたよ。オッペンハイマーが晩年まで苦しみ嘆いた如く、如何なる言葉をも圧倒する「破壊」という事実そのものがそこにはありました。
 
 でも最後に小さな白い花の写真が飾られていました。爆心地の近くで戦後間もなくの内に撮影されたという写真。「50年は草木も生えぬ」と嘆かれた広島に花が咲いた、撮ったヤツは嬉しくてしょうがなかったんでしょうね。そこらに生えている雑草みたいな花ですが、まるで宝物みたいに。
 そのまま歩くと窓が大きく開けていて、広島の街が一望できます。現代の主要都市のひとつとして栄える巨大な街です。
 「見て見て!あの一輪の花がここまで大きくなったよ!俺たち人間はこんなに強い!!」と誇らしげに笑いかけてくるようで。
 それがただただ、嬉しかった。

2011年3月19日土曜日

日本が静止した日



震災から1週間が経過し、関東では少しずつ平常に戻りつつある。
本来的にこの国の流通システムは非常に優秀で、震災から2日も経てば筆者の住む横須賀でも多くの食料が再度流通し始める。

しかしそれでも店の開店直前には毎日のように長蛇の列が形成される。
何故皆ここまでするのだろうか。もちろん平時に比べれば商品の数も種類も少ないが、少なくとも自分たちが飢えて死ぬようなことにはならないことは、ニュースや新聞を見ても明らかであるのに。
毎日見ていると、真っ先になくなっているのは決まって牛乳、納豆、卵の三品。カップラーメンもまだ欠品している棚が目立つ。これらは入荷すると同時に人が群がり、あっという間に欠品する。
そして不思議なことに、韓国の辛ラーメンやベトナムのフォーは大量に残っていたりする。美味しいのに(;´∀`)、、、これらはつまり、辛いとか口に合わないとかの理由によるところが大きいのだろう。

災害時においても自らの嗜好を反映させるあたり、「文化」と呼ぶべきか「考えが甘過ぎる」と評価するべきか非常に悩むところである。単に物資の不足が極限的な状況にないためということもできよう。
しかし仮にこれを「文化」と評して肯定的に受け取ったとしても、その文化とやらを守るために買占めが発生するのであるならば、さすがにそれまで肯定的に見ることは出来ない。

ガソリンにしろ食料にしろ、自らの需要を遥かに超える備蓄をするとなればそれは同時に他者の取り分を横取りするということにほかならない。
「他の人が手に入れる前に自分が手に入れよう、他の人が困っていても自分は困らないようにしよう」という理念が買占めの根底に存在するとすれば、これはすなわちホッブズの言う「自然状態」=「万人の万人に対する狼」と何ら変わるところがない。
つまりそのような状態は既に「文化的」とは到底言えないということだ。

常に、高潔たれ。

・・・・あ〜、、、でもそろそろ俺も納豆食べてぇなぁ。あの列に加わるのは嫌なので、落ち着くまで我慢我慢(;´∀`)。。。

2011年3月18日金曜日

エネルギー保存の法則の明確な否定。

あなたの部屋の電気を消せば、あなたの部屋は暗くなる。
そのぶん何処か遠くで明かりがともる。
そしてあなたの中には、それと同じくらい大きな明かりが灯る。

さて、まずはこのパソコンの電源を落とそうか。

2011年3月9日水曜日

ありったけの情熱をもって、革命家の夢を。

COHIBAキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
年齢制限があるとはいえ、煙草だってお酒やお茶と同じく立派な文化だ。何百年と受け継がれ、洗練されて今に至る。

その文化的背景に目をやらぬまま嫌煙ムードに圧されて消え去ってしまうとすれば、それはひとつの文化の否定であり、侮辱とすらと言える。
それはとても悲しいことだ。

2011年3月1日火曜日

妥協 ≠ 芸術

愛情は顕示欲を伴う
いや別に、恋愛感情を広く吐露することを否定するつもりはない。過去の芸術作品においてもたった一人の女性のために作られたものや、それは公表すべきではないのではとハラハラする作品もある。
私はそれらの素晴らしさを否定するものではないし、むしろそういった自分勝手さは大好きな方だ。

しかしそれらが芸術と呼ばれるものに昇華するためには、他者にどれだけ否定されようとも自分こそが正しいという絶対的な自信によって裏付けられ、またそれを見る他者が納得せざるを得ないような絶対無比な技術を持って表現されなければならない。そして同時に、そのための表現は妥協されてはならない。

本当はもっと上手く描けるのに時間がなくて、或いは他の人に見つかるのが怖くて早く書き上げたものなど妥協の産物としか言えず、それはもはや芸術とは言えない。それは単なる自己顕示欲の発露と呼ぶべきだろう。
妥協した愛を受けて喜ぶ女性など居ない。

2011年2月20日日曜日

仁義なき猫2 「禿げ際の攻防」編

禿げないように努力をすると、禿げます。

「必要以上に頑張らない事が最良の結果につながる!!ような気がするニャ」


「同感。しなやかさを失えば全てが悪い方向に進むしね。」


「しかし必要な努力すらしないと、それはそれでまたひどい事になるニャ」


「中庸を尊べ、と言いたいのかい?」

猫 
「遊んでないでさっさとブラッシングしろ、と言いたいのニャ!!」

2011年2月19日土曜日

「エコ」って?

汚染することだって、忘れてないぜ!!
使わなくなったら捨てる。この営み自体は何万年も前から繰り返されてきた。貝塚を見ればそれが分かる。
別にこれは人間に限ったものではない。例えば鳥は木の実を食べる際、自分の好む部分のみを啄むとその他の箇所は地面に捨てる。植物の方もさるもので、鳥類達のそういった習性を利用して播種計画を練っていたりする。

では捨てられたのが人工物である場合にはどうか?
例えば塩化ビニールについて、以前は分解するまでに500年かかると言われていた。これは塩化ビニールを栄養素として利用する生物が自然界にほとんど存在しないということに起因する。これが分解されるためには、少しずつ進行する酸化とそれに伴う微生物分解を待たねばならないため、自然界に元々から存在する物質に比べて分解の速度が遥かに遅い。

しかしこれにしたって、放っておけばいずれ必ず分解される。セミパラチンスクを見てみると良い。原発事故からたかだか数十年で街は森に飲み込まれようとしている。鉄は土塊に、プラスチックは溶けて跡形もなくなりつつある。
全ての人工物はそれが生成される前の姿へとゆっくりと回帰してゆく。塵は塵へ、だ。
人工物の分解には自然物の分解に比べて膨大な時間を要する、というだけの話だ。

だから、「こういったものを適切な処理なくして廃棄すると自然を汚染する」という表現はいささか正確さに欠ける。
単に分解のための時間がかかり過ぎるがために、人間が排出する廃棄物の量が自然の処理能力を超えてしまう、というのが本当のところだ。
この「廃棄物の量」と「自然の処理能力」とのバランスを取るため、出来るだけ廃棄物を少なくする、或いは自然が処理しやすい状態にして廃棄する、ということが求められる。これがいわゆる「エコロジー」の本質であるように思う。

「エコ」とは単に「ゴミや二酸化炭素を出さないこと」という認識が一般的である。それは正しい。環境保全のために何をすべきか、その内容を的確に言い表している。
しかし一方で何故それが自然環境の保全につながるのか、そのシステムを全体として理解する必要もあると思う。さもないと畑に堆肥を撒くことすら自然破壊にされてしまいかねない。

さて、あなたの身の回りにひしめく「エコ」な品々。それが一体どういった形で自然環境の保全に繋がっているのか、一緒に考えてみませんか?

2011年2月16日水曜日

哲学猫は野狐禅と踊る。


その向こうには何も無い。

物事を少しでも真剣に考えた事のあるヤツであれば、巷でよく聞く「生きる意味」やら「人生の目標」やらは全くの虚像に過ぎないとうすうす感づいているのではないかね。
その直感は正しい。

なにせ世界には意味が無い。世界は無意味だ。
これが哲学の出発点。

「世界が無意味である」ということを前提として考えると、俺達の生も、そこで行なわれる全ての物事も、すべからく無意味であることになる。
ベン図を思い描いみるといい。「人間」を取り囲んで「世界」がある。当然、人間は世界の中にしか存在し得ない訳だが、まさしくその「世界」こそが無意味なのだ。
となればその内側の存在である人間もまた無意味だ。もし人間に意味があるとすれば、それは完全な論理矛盾となる。

素晴らしい風景、心やすらぐ人との出会い、別れに伴う哀しみ、達成の高揚、怒り、孤独、希望を諦めない強靭な意思。
そういった物事の一つ一つは、君にとってとても大切な、意味のある記憶なのではないかい?
おめでとう、君の直感は正しい。それらは全て無意味だ。論理的にはね。

しかしどうだろう?
無意味だからといって、わざわざそれらを投げ捨てる必要もないのではないかい?
ある事象が「客観的に見て無意味である」ことと、「個人にとって大切である」ということとの間には、実は相関関係が存在しない。
無意味なものを大切にしたいのならばそうすればいい。そんなのは個人の勝手だ。

でも忘れるべきではない。自分にとって本当に大切な事は、客観的に見れば無意味なのだ。
「大切だ」という独りよがりな思い込みをしているに過ぎないのだ。
だからその記憶はお腹の中にしまって、誰にも見せないようにして過ごしてゆかないとならない。ひとたび外に出したが最後、きっとそれは無意味の海に飲み込まれ、希釈されて取るに足らない物に失墜する。

物事の本当の価値は、それが思い込みであるという事まで全て飲み込んだ上で、本人だけが知っていればそれで十分なのだ。

・・・・と、こんな誰も見ていないブログだからこそ書いていられるのだ。
いぇ〜(^^ゞ♪

2011年2月7日月曜日

(事実 ≒ 現実) ≠ 真実


空はそれほど美しくなかった。
頭の中の空の方が美しかった。
頭の中の空より、写真の空の方が美しくなってしまった。

真実が塗り替えられた。