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2010年6月30日水曜日

製品本来のご使用方法をお守り下さい。

Cosina Bessa-R  canon 50mm f2.0
Tri-X400  
1/250 f5.6



観音崎にいた昆布とりの人。
俺は昆布苦手。
しかしこんぶ茶は好き。
それもお湯に溶かすのではなく、粉のままご飯に少量かけて、ふりかけのようにして食べる。うめこんぶ茶なんつったらもう高級料理の如き味わいに。
こんぶ茶のこういう使い方ってもっと一般的だと思っていたのだけれど、案外皆やった事ないみたいね。
周りの人は「気持ち悪い」というのだけれども、実際に食べさせるとハマる人急増。ダシの味と適度な塩分で何杯でもいける。
ぜひどうぞ。


それはいいとして今日の本題。
 実はこのカット、撮影の際に勘違いして、2段半程多めに露光かけてしまったものなのだよね。
 フィルムの最後の方だったので、残りは通常通り撮影してから、現像する時にも何ら特殊なことをせず、スキャン及びレタッチの段階で修正。
 案外うまく写っているものだね。というか、2.5段分ということは露光量にして6倍多く光が当たっているということだけれど、それでもちゃんと写真になってくれているということに感動。
 ・・・もうAEとか要らないんじゃ?もっと言えばシャッター速度も低速・中速・高速の三つくらいあれば事足りるんじゃ?
 以前お遊びで買ってみたスメナ8mというロシア製のカメラがそんな感じのいい加減っぷりだったけど、結構良く写っていたしなぁ。

2010年6月29日火曜日

墨染の紫陽花

Nikon F2  Nikkor ai-s 50mm f1.4

 鎌倉は明月院へ行ったので紫陽花などをどうぞ。
 
 たとえ毎年同じ紫陽花を見たとしても、咲いた花は毎年違うからね。その度毎に新しい発見がある。
 そういうのが、楽しい。

2010年6月27日日曜日

アナログ的モノクロモード。

rollei35s
sonnar 40mm f2.8


 今日はまた例によってモノクロ。とはいえ今日のはカラーフィルム(Fuji superia400)で撮影した写真から作った偽モノクロだ。


 拡大して見てもらえると分かるのだけど、Tri-X400辺りで撮影したものと異なって粒子がない。
 これはモノクロフィルムが黒化した銀粒子を利用して画像を構築するのに対して、カラーフィルムではその銀を取り除いてしまうために粒子として残らない、ということに因るのだ。


 こうしてみると、デジカメのモノクロモードで撮影したものにちょっと似ている感じがするね。最近はデジタルで作られたモノクロ写真もたくさん出てきたのでだんだん見慣れてきてしまい、個人的にはこういう画像もアリかなと思えてくる。

2010年6月25日金曜日

対話。

金魚
「俺たちはね、純粋な競争原理の中で生きてるの。ワイルドなの。」


「水槽の中でも?」

金魚
「限られた環境の中でこそ競争は激化するの。」


「苦手だな、そういうの」

金魚
「不条理なルールでも受け入れなきゃならないの。そこに疑問をもっちゃいけないの。」


「・・・悲しいことじゃない?それって。」

金魚
「そんな感情、持っちゃいけないの。」

2010年6月23日水曜日

寓話。







He doesn't save broken toys.

たとえば君は病院で目覚める。
見回すと周りには何百というたくさんのベッドが並んでいて、そこに寝かされた人々に目覚める様子はない。
皆一様に幸せな夢を見ているようだ。

君は唐突に気づいてしまう。
部屋の向こうからベッドごと人々が順番に消えて行き、それは絶対に逃れられない運命であると。


さて、考えてみてくれ。
 君は周囲の人を起こすべきか?
 もし起こすだけ起こして、そいつが「起きたくなんてなかった」と泣きながら訴えてきたらどうするのだ?
 君は、周囲の人を恐怖のどん底に突き落とす権利を持っているのか?

 答えなんて人それぞれだ。
 だがひとつだけ確実そうなことがある。

 神様は、目を覚ましてしまった者などもう愛さないということだ。

2010年6月20日日曜日

無心という技術。

olympus E-500
Zuiko Disital 14-45mm 


 筆者は合気道という若干マイナー(?)な武道をやっているわけだが。今日は仲間の演武会を見に行ってふと思った事など。


 今日「武道」と呼ばれる一群の競技は、そう呼ばれる以前の戦闘技術、つまり剣術や柔術といった「武術」に端を発する。
 「武術」とは、要するに戦場を如何にして生き残ってくるかという、ただそれだけの事を何百年もかけて徹底追求し続けたところから生まれた技術群だ。
 そして各流派は「生き残る」という目的達成のための最も確実な手段として、「敵対勢力の完全な無力化」を追求した。

 そのような時代においても、やはり精神性というものは尊ばれていたようだ。例えば多くの剣術家は「無心」という精神状態を大切にした。

 とはいえこれは現代の武道において尊ばれる精神性とは、ちと意味が異なるようにも思う。
 たとえば「先の先」という概念があるが、これを実現するためにはそれこそ頭を空っぽにして(=無心になって)、相手が攻撃意志を持った瞬間にこれを感じ取り入身してゆかねばならない。
 とどのつまり、ここでは無心という精神状態を「勝つための技術」として利用しているわけだ。

 筆者は合気道とは別にエアライフルによる射撃競技もやっているわけだが、ここでも形を変えて「無心」というものが重視されるように感じる。
 「俺は三脚、銃を支えるための三脚。」「音が聞こえてくるけど、俺には関係ない。俺は機械。」と自分に言い聞かせ、そして言い聞かせたことも含めた外界の全てを忘れることで初めて思ったところに弾が飛んでいく。
 ここでもやはり「頭からっぽ」状態を「当てるための技術」として使っている。

 いずれにしろ、「無心」は「勝つため」に必要な精神的技術であるように感じる。
 
 さて、今は平和な時代だ。「勝つため」という目的でこういう精神的な技術ははっきりいって必要ないかもしれない。皆が皆何かしらの競技をやっているわけでもないしね。
 とはいえ純粋な技術体系でしかなかった「武術」が、精神性を重んじる「武道」に変遷したことでより多くの人に親しまれ、それと同時に上記のような精神技術をも広めることが出来るならば、あるいは武術とは異なったもっと別の場所でも役立つかもしれない。
 たとえそれが生活の中にある何気ない所作であったり、あるいは普段の仕事の中でふと出てくるものであっても良い。
 そういった領域においても「無心」に代表される精神的技術の利用可能性を広めたという点で、「武術」から「武道」への変遷はとても重要であり、また偉大な転換であったと思うのだ。


2010年6月17日木曜日

色ってヤツは厄介なシロモノで。

Cosina Bessa-R  Canon 50mm f2.0
fuji superia 400

 久しぶりにネガ・カラーフィルムで撮影したものをアップしてみるのですよ。
 カラーについては既にデジタルがフィルムを凌駕していると認識しているだけれど、こうしてみるとなかなかどうして、俺好みの色になってくれるわぁ(´∀`)

 よく、「ネガ・カラーにはオリジナルの色というものが存在しない」という言い方をされる。これはかつてフィルムカメラ全盛時代において、ネガをプリントする際には現像所で焼付けした人の好みや価値観によっていくらでも色合いを変えられるというところに起因したみたいだね。
 実際、焼き増ししてみたら同じネガからなぜこんなに?と聞きたいくらい違った雰囲気のプリントを手にすることもあった。

 ところがだ、ことデジタルで写真を管理するようになるとネガカラーってのも結構オリジナルな色合いを持っているということに気付かされるよ。
 これは自分でもRAW現像などをやりだしてわかったことなのだが、デジタルは現役でフィルムを使っている人間から見れば異常とも言えるほど自由度というか、レタッチ耐性が高いと感じる。
 だってデジカメなら後からホワイトバランスはいじれるし、彩度やシャープネス、コントラストも思いのまま。俺みたいなモノクロスキーも安心の粒状性追加プラグインなんてものまで登場する始末。

 一般的にはフィルムの持つラチチュードの広さに着眼して、「デジタルももうちょっと頑張ってくれれば」という意見を聞くことが多いのだけど、ラチチュード云々という話と、レタッチ耐性という話はまたちょっと異なるようだね。
 デジタルと比べれば、フィルムをスキャンしたものはレタッチするにも限界があって、スキャンの時点である程度の色合いなどは決定されてしまうし、やりすぎるとあっという間に破綻してしまう。
 そりゃデジタルでもいじりすぎれば当然破綻するのだけれど、破綻するまでの許容量が異なるのだよね。フィルムのほうが狭いように感じる。
 
 ところが逆に考えれば、レタッチ耐性が低いと言うことはフィルムが要求してくる色からそれほどかけ離れてレタッチ出来ないと言うことでもあるわけだから、それを個性と呼んでも良いような気もするのだよね。
 実際、例えば上にアップした写真と同じ色を、俺の持っているE-500というデジタル一眼レフで再現してみろと言われたら正直苦労すると思う。
 
 こうして見てみると、ネガはネガとしての十分な個性があると評価することも出来るのではないかな。
 筆者はことカラーに関してはこのところデジカメ一辺倒だったのだけれど、ネガ独特の色が好きだと言う向きには積極的にこれを採用してみるのも一興かもしれないと思ったね。

2010年6月16日水曜日

管理したければ放任せよ、と。


 むかーし撮った写真を貼ってみる。
 たぶん12〜13年前位になるか。横須賀・馬堀海岸にて撮影。フィルムはPROVIA400、機材はCanon FTB FD50mm f1.4。
・・・あ〜、俺このころから標準レンズ馬鹿だったんだね。

 馬堀海岸は整備されて、今ではこの写真のようなテトラポッドの積み重なる海岸線ではなくなってしまった。

 自分にとって好きな場所を探ってみると、「なんの意味もない場所」という共通点が浮き上がってくるのだよね。当時の馬堀海岸もそんな場所の一つだったりする。
 日本の公園や娯楽施設などは、とかく「ここでリラックスしろ」とか「ここで楽しめ」と言わんがばかりの施設が多すぎる。
 そういう予め意味を付与された場所というのは利用する個人に自由を許さない。「自由」というのは行動の自由ではなく、精神の自由ね。
 「なんの意味もない場所」だからこそ「何をしても良い」と思えるし、「何をしても良い」からこそ「何もしないでぼーっと海を眺める」だけのことが本当に楽しくなる。

・・・天邪鬼の理屈であると言うことはわかってるんだけどね。

2010年6月12日土曜日

知性の痕跡。

olympus E-500  Zuiko Digital 14-45mm
RawをApertureにてモノクロ化

 現代に生きる我々には、デジタルデータであったり紙媒体であったりと物事を記録する方法についていくつもの選択肢がある。ではいかなる手段によることが、情報を出来る限り長く後世まで残すことが出来るのか。
 以前、写真の保存性の項で少し検討したが、今回はまた違った視点、「写真以外の物も含めた上で人が管理しない場合」に焦点を当てて考えてみたいと思う。
 
 これは純粋に記憶媒体の物理的耐久性の問題に直結する。人は物事を記録する際に何がしかの物体にこれを焼き付けるという方法を採るわけであるが、当然この物体の特性によってその耐久性が異なる。
 そしてその特性は、シンプルなものほど残り易いということが出来そうである。つまり機械を見てみるとわかるが、複雑な機械になるほど故障の発生率も増加し、また故障した際の修理も困難になる。

 となれば、仮に今この瞬間に人類が滅亡したとして真っ先に呼び出せなくなる媒体は一群のデジタルデータであるといえよう。
 デジタルデータはそもそもが人間の目からは判別できない0と1による信号で構成され、これを読むための装置を必要とする。またDVDやMOなどの単純なディスク媒体ならまだしも、HDなどはそれ自体にドライブとしての仕組みを有している。
 このようにデジタルデータは記録媒体の他にそれを再生するシステム全体で生き残っていることが保存ために必要な要件であり、これは絶えず機器類を適切な状態に保つ人の存在が不可欠となる。
 
 ではアナログデータはどうか?
 これはより単純に、「シンプルなものほど生き残る」と言える。
 例えばフィルムはポリエステル上に残された銀の粒子による画像だが、画像というからには経年劣化やカビの発生によって細部がぼやけ始め、やがて何が写っているのか分からなくなる時が必ずやってくる。
 そこに焼き付けられた情報が、画像という細かな再現を必要とするものであるが故、もう少しシンプルな情報である文字や記号などよりも再現不能となるまでの期間は短くなってしまうことが予想される。
 
 更に事を写真などの画像ではなく、他の情報にまで広げてみよう。これによって記録媒体の選択肢を広げる事はできる。つまり文字情報であれば紙に書きつけるという方法も採れる訳だが、この場合には紙自体とそこに書きつけられたインクという二者の耐久性を考慮する必要がある。
 とはいえ、フィルムほど神経質にならなくても良さそうである。古代のパピルスから始まり羊皮紙を経て近現代の紙にいたるまで、雨風にさらされなければ数百年は生き残ることがわかっている。インクも炭素系のものや鉛筆を使えばかなりの年数持つ。炭素と言うのは比較的安定した化学的特性を持っているのためである。
 ただしこれには条件がある。紙が風雨に晒されず、また過度に乾燥したりもなく、当然焼失したりの災害からも守られている必要がある。しかしこれにしても、先に見たデジタル機器よりは簡単な話だろう。単に頑丈な建物や容れものを用意すればよい。当然、当該建物やら容れものの耐久性がまた更に文段となろうが、石の建築が木の繊維でできた紙よりももろいとは言えないのではないかな?
 
 では更に条件を過酷にして、雨風に晒され、それでも何千年・何万年と情報を維持することの出来る媒体はないものか?
 あるにはある。物体に直接刻みつけるという方法がそれである。
 とはいえこの方法は刻みつけるべき物体の化学的特性を理解していなければならない。例えば金属は駄目だ。多かれ少なかれ腐食する。
 結論から言えば自然界に最初から存在する物体、つまり石を選ぶべきだろう。その中でも特に摩擦に強い種類のものを選んで刻みつければよい。古代の遺跡を見るとわかるが、数千年を経ていまだに文字を読むことが出来る。
 とはいえ、これにしたって完璧な記録方法とは言えない。地球上には生物が存在している以上、常にその侵食を受けるからだ。我々の住む街だって、整備されなければ数十年で植物に埋もれ、数百年すればそこに街があった痕跡そのものが消滅するだろう。
 また火山など大規模な地殻変動による極端な熱に晒されたり、あるいは流水の中に長期間晒されるなどをしても、石に刻まれた情報が融解あるいは摩耗し消滅する。

 つまり一番信頼できる石に文字を刻み込むという方法にしても、周囲の環境によって保存が左右される事には代わりはなく、単にこの方法が他の手段よりもより過酷な環境に耐えうるというだけの程度問題でしかないことがわかる。
 
 この世界に不変のものが存在しない以上、人間もやがては必ず滅びる時がやってくる。
 最も原始的な、石に刻みつけた文章だけが残るとしたら、今のうちに現代の技術をいくつかでも良いのでこの形で残しておくべきのような気がする。数式であったり、単純なプログラムを01で書き連ねるのもよいだろう(これは流石に無理か(;´∀`))。
 何かしらが残ってさえいれば、そこにそれなりの知的生命体が存在した証拠になるだろう。
 あとは仮に見つけるヤツが出てきたとして、ソイツの想像力にお任せする。
 
 えらく遠い話のように思える。しかし人という存在がいずれ必ず居なくなるというのは、おそらく事実だ。
 毎日こんなことを考える必要はないけれど、たまにはこういったことに思いを巡らせてみるのもよいかな、と思った次第なのである。
 
 以上、今宵のお話はこれまで。

2010年6月11日金曜日

その向こう側に何が見えるか?

Cosina Bessa-R  Canon 50mm f2.0
Kodak Tri-X4oo 
D76 1:1希釈現像

 芸術でも単なる街の風景でも何でも良い、新たな刺激或いは表現を受けとった人は、過去における自らの経験により感じ考えてきたことを基盤とし、新たになにがしかの感情や思考を抱き且つ発展させる。
 そして人は、誰一人として全く同じ生を歩むことはない。
 とすれば、同じ対象を見てもそこから受けとるものは各人において全く異なってくる。
 俺の見ている世界と、あなたの見ている世界は常に異なる。


 さて、今あなたには何が見えているのか?

2010年6月10日木曜日

ナルキッソス達の邂逅







われ童子の時は誇ることも童子のごとく、
おもうことも童子のごとく、
論ずることも童子のごとくなりしが、
人と成りては童子のごとくを棄てたり。

                               コリント書 第13章より


 動物に於いて、性的に成熟した個体でありながら未成熟な部分が残る状態のことをneoteny(幼態成熟) と呼ぶ。転じて社会学の領域に於いても、人間が外面の完全性と相反する不完全性を内面に抱えて生き続ける事を指して同じく幼態成熟説と呼ぶことがある。
 人間は外見の完全さに対して内面は未熟な存在として産まれ、それは解消されることなく歳を重ねる。大人と同じ体躯を持つが故、それに見合った成熟した内面を得ようとして一生もがく。
 ギリシャ神話のナルキッソスは水鏡の中に何を見たのだろう。そこには完全な、美しい人間が写っていたはずだ。
 彼は水鏡に写る完全なる存在に同化せんと水面にその身を投じる。しかし完全なる自分と一つになれたと思った途端、水鏡は破れ暗い死が彼を待つのみである。
 「完全な自分」と実際の自分は常に乖離し、いつまで経っても同一化することが出来ないとの喩えである。
 では、そもそも「完全な自分」など幻想に過ぎないとして、それを追い求める努力は無益なことであるのか。それもまた否である。
 すなわち完全たろうとする理想を捨てることは、それ以上の進歩・発展の可能性をも失う事と同義であるが、進歩や発展といった自己変革の過程こそが人を人たらしめてきたと言えようから、これを否定する事は人たるを諦めたと同義と考えるからである。
 かくて人は産まれ出でて以来、求めても決して自らのものにならないものを追い続ける事を要求され、そして約束されたようにそれを手に入れることが出来ないままに死を迎える。
 やっかいな生き物として産まれたなぁ、俺たちは。でもせっかくだから精一杯、あがいてみようか。

2010年6月8日火曜日

Tri-X粗粒子現像と、どらまちっく・ぬこ。

Nikon F2  Nikkor Ai-s50mm F1.4
Kodak Tri-X4oo D76 1:4希釈現像

 今回はちょいとお遊びでコダックのトライXを粗粒子現像してみることに。いろいろと参考にして、処方はD-76の1:4希釈、35度で7分半に決定。


 結果。どうかね?
 いつもの猫がまるで人生の悲喜こもごもを乗り越えてきたような味わい深い表情に。多分、何も考えてないのだろうけど。


 俺としては粒子云々よりも妙にコントラストが上がったのが目につくが。万能とは言い難いも、手軽にドラマチックな画像にするにはうってつけといったところか。


 しかしフィルムの、特にモノクロフィルムのラチチュードってのは凄まじいね。こんな無茶苦茶な現像をしてもハイライトやシャドーがギリギリまで粘ってくれる。これだからまだフィルムはやめられねぇなぁ・・・へっへっへ。。。