自然状態において、人は他者の財産を際限なく奪い争う「万人の万人に対する狼」に陥る。ここからの脱却のため人は理性的選択の結果として国家を作り、自らの武器をこれに預けた。こういう考え方を法律の世界では社会契約論と呼ぶ。
む?・・・疑問が浮かんできたぞ。「理性=武器の放棄」という考え方は是か否か?
ということで考えてみませう。
仮にAとBという二人が銃をお互いに向けあっていたとする。この状況では、両者の行動の帰結は次の4種類に場合分けされる。
すなわち、
① Aが死んでBが生き残る
② 双方とも生き残る
③ 双方が死ぬ
④ Bが死んでAが生き残る
である。
さて、まずAにとって最良の帰結から順に見てゆくと、①Aだけ生き残ってBが死ぬ→②双方が生き残る→③双方が死ぬ→④Bだけ生き残ってAは死ぬ、となる。
対して、Bにとって最良の帰結から同じように見てゆくと、④Bだけ生き残ってAが死ぬ→②双方とも生き残る→③双方とも死ぬ→①Aだけ生き残ってBは死ぬ、となる。
ここからすれば、いずれにしても②の「双方とも生き残る」は両者にとって次善の帰結としてしか存在し得なく、決して最良の帰結とはなり得ない。
話を戻そう。
社会契約論では理性的選択によって双方ともが②「双方とも生き残る」を選択し、それを実現する手段として国家を作りこれに武器を預けたのだ、と説明する。
しかし上記のような状況において、人は果たして理性的選択とやらによって次善策を採用することを良しとするだろうか。
他者も自らと同じ「狼」であるということを前提とするならば、理性はむしろ自分にとっての最良の帰結(Aにとっての①、Bにとっての④)を如何にして実現するか?という方向へ向き思考すると考えるのが自然であるように思える。
こうなると次には、
① Aだけ武器を持ち続け、Bだけ捨てる
② 双方が武器を捨てる
③ 双方が武器を持ち続ける
④ Bだけ武器を持ち続け、Aだけ捨てる
という4択に直面する。相手にだけ武器を捨てさせることが出来れば、最初の4択における最良の帰結、すなわち「自分だけ生き残る」の実現可能性が飛躍的に向上するからである。両者の間では、表面上「武器を捨てる」と言っておきながら、実は裏で「相手にだけ武器を捨てさせて自分は武器を持ち続ける」という状況を如何にして実現するかに焦点が置かれる事になる。
つまり事の位相が「如何にして相手を殺すか」から「如何にして相手に武器を捨てさせるか」へと移転しただけで、4択は形を変えて存在し続け何ら解決にたどり着かない。どころか、状況はそもそも最初に提示された4択からひとつも進展していないとも言える。
同時に、人が理性的存在であればあるほど自分にとっての最良の帰結を永遠に選択し続けることになり、社会契約論の説く国家はいつまでも発生しないということになってしまう。
ううむ、堂々めぐりだね。やれやれ。