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2012年10月30日火曜日

銀塩復活。

叔父からニコンF3を頂いた。ニコンサービスセンターでOVHして使い始めている。しかしさすがニコンさん、見積りは32000円ほどだったのが、実際には20000円かからずに整備してくれた。
久しぶりのモノクロフィルム&現像だけれど、デジタルで散々苦労した欲しい階調があっという間に出るのはびっくりしたね。再びメインが銀塩写真に戻ってしまった。
大切なカメラを譲って頂いた叔父さんにも、一生懸命に整備してくれたニコンさんにも感謝しきりの毎日。
一生、大切に使わせて頂きます。

2011年7月9日土曜日

墨染の紫陽花

夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり

2011年3月19日土曜日

日本が静止した日



震災から1週間が経過し、関東では少しずつ平常に戻りつつある。
本来的にこの国の流通システムは非常に優秀で、震災から2日も経てば筆者の住む横須賀でも多くの食料が再度流通し始める。

しかしそれでも店の開店直前には毎日のように長蛇の列が形成される。
何故皆ここまでするのだろうか。もちろん平時に比べれば商品の数も種類も少ないが、少なくとも自分たちが飢えて死ぬようなことにはならないことは、ニュースや新聞を見ても明らかであるのに。
毎日見ていると、真っ先になくなっているのは決まって牛乳、納豆、卵の三品。カップラーメンもまだ欠品している棚が目立つ。これらは入荷すると同時に人が群がり、あっという間に欠品する。
そして不思議なことに、韓国の辛ラーメンやベトナムのフォーは大量に残っていたりする。美味しいのに(;´∀`)、、、これらはつまり、辛いとか口に合わないとかの理由によるところが大きいのだろう。

災害時においても自らの嗜好を反映させるあたり、「文化」と呼ぶべきか「考えが甘過ぎる」と評価するべきか非常に悩むところである。単に物資の不足が極限的な状況にないためということもできよう。
しかし仮にこれを「文化」と評して肯定的に受け取ったとしても、その文化とやらを守るために買占めが発生するのであるならば、さすがにそれまで肯定的に見ることは出来ない。

ガソリンにしろ食料にしろ、自らの需要を遥かに超える備蓄をするとなればそれは同時に他者の取り分を横取りするということにほかならない。
「他の人が手に入れる前に自分が手に入れよう、他の人が困っていても自分は困らないようにしよう」という理念が買占めの根底に存在するとすれば、これはすなわちホッブズの言う「自然状態」=「万人の万人に対する狼」と何ら変わるところがない。
つまりそのような状態は既に「文化的」とは到底言えないということだ。

常に、高潔たれ。

・・・・あ〜、、、でもそろそろ俺も納豆食べてぇなぁ。あの列に加わるのは嫌なので、落ち着くまで我慢我慢(;´∀`)。。。

2011年3月1日火曜日

妥協 ≠ 芸術

愛情は顕示欲を伴う
いや別に、恋愛感情を広く吐露することを否定するつもりはない。過去の芸術作品においてもたった一人の女性のために作られたものや、それは公表すべきではないのではとハラハラする作品もある。
私はそれらの素晴らしさを否定するものではないし、むしろそういった自分勝手さは大好きな方だ。

しかしそれらが芸術と呼ばれるものに昇華するためには、他者にどれだけ否定されようとも自分こそが正しいという絶対的な自信によって裏付けられ、またそれを見る他者が納得せざるを得ないような絶対無比な技術を持って表現されなければならない。そして同時に、そのための表現は妥協されてはならない。

本当はもっと上手く描けるのに時間がなくて、或いは他の人に見つかるのが怖くて早く書き上げたものなど妥協の産物としか言えず、それはもはや芸術とは言えない。それは単なる自己顕示欲の発露と呼ぶべきだろう。
妥協した愛を受けて喜ぶ女性など居ない。

2011年2月20日日曜日

仁義なき猫2 「禿げ際の攻防」編

禿げないように努力をすると、禿げます。

「必要以上に頑張らない事が最良の結果につながる!!ような気がするニャ」


「同感。しなやかさを失えば全てが悪い方向に進むしね。」


「しかし必要な努力すらしないと、それはそれでまたひどい事になるニャ」


「中庸を尊べ、と言いたいのかい?」

猫 
「遊んでないでさっさとブラッシングしろ、と言いたいのニャ!!」

2011年2月19日土曜日

「エコ」って?

汚染することだって、忘れてないぜ!!
使わなくなったら捨てる。この営み自体は何万年も前から繰り返されてきた。貝塚を見ればそれが分かる。
別にこれは人間に限ったものではない。例えば鳥は木の実を食べる際、自分の好む部分のみを啄むとその他の箇所は地面に捨てる。植物の方もさるもので、鳥類達のそういった習性を利用して播種計画を練っていたりする。

では捨てられたのが人工物である場合にはどうか?
例えば塩化ビニールについて、以前は分解するまでに500年かかると言われていた。これは塩化ビニールを栄養素として利用する生物が自然界にほとんど存在しないということに起因する。これが分解されるためには、少しずつ進行する酸化とそれに伴う微生物分解を待たねばならないため、自然界に元々から存在する物質に比べて分解の速度が遥かに遅い。

しかしこれにしたって、放っておけばいずれ必ず分解される。セミパラチンスクを見てみると良い。原発事故からたかだか数十年で街は森に飲み込まれようとしている。鉄は土塊に、プラスチックは溶けて跡形もなくなりつつある。
全ての人工物はそれが生成される前の姿へとゆっくりと回帰してゆく。塵は塵へ、だ。
人工物の分解には自然物の分解に比べて膨大な時間を要する、というだけの話だ。

だから、「こういったものを適切な処理なくして廃棄すると自然を汚染する」という表現はいささか正確さに欠ける。
単に分解のための時間がかかり過ぎるがために、人間が排出する廃棄物の量が自然の処理能力を超えてしまう、というのが本当のところだ。
この「廃棄物の量」と「自然の処理能力」とのバランスを取るため、出来るだけ廃棄物を少なくする、或いは自然が処理しやすい状態にして廃棄する、ということが求められる。これがいわゆる「エコロジー」の本質であるように思う。

「エコ」とは単に「ゴミや二酸化炭素を出さないこと」という認識が一般的である。それは正しい。環境保全のために何をすべきか、その内容を的確に言い表している。
しかし一方で何故それが自然環境の保全につながるのか、そのシステムを全体として理解する必要もあると思う。さもないと畑に堆肥を撒くことすら自然破壊にされてしまいかねない。

さて、あなたの身の回りにひしめく「エコ」な品々。それが一体どういった形で自然環境の保全に繋がっているのか、一緒に考えてみませんか?

2011年2月16日水曜日

哲学猫は野狐禅と踊る。


その向こうには何も無い。

物事を少しでも真剣に考えた事のあるヤツであれば、巷でよく聞く「生きる意味」やら「人生の目標」やらは全くの虚像に過ぎないとうすうす感づいているのではないかね。
その直感は正しい。

なにせ世界には意味が無い。世界は無意味だ。
これが哲学の出発点。

「世界が無意味である」ということを前提として考えると、俺達の生も、そこで行なわれる全ての物事も、すべからく無意味であることになる。
ベン図を思い描いみるといい。「人間」を取り囲んで「世界」がある。当然、人間は世界の中にしか存在し得ない訳だが、まさしくその「世界」こそが無意味なのだ。
となればその内側の存在である人間もまた無意味だ。もし人間に意味があるとすれば、それは完全な論理矛盾となる。

素晴らしい風景、心やすらぐ人との出会い、別れに伴う哀しみ、達成の高揚、怒り、孤独、希望を諦めない強靭な意思。
そういった物事の一つ一つは、君にとってとても大切な、意味のある記憶なのではないかい?
おめでとう、君の直感は正しい。それらは全て無意味だ。論理的にはね。

しかしどうだろう?
無意味だからといって、わざわざそれらを投げ捨てる必要もないのではないかい?
ある事象が「客観的に見て無意味である」ことと、「個人にとって大切である」ということとの間には、実は相関関係が存在しない。
無意味なものを大切にしたいのならばそうすればいい。そんなのは個人の勝手だ。

でも忘れるべきではない。自分にとって本当に大切な事は、客観的に見れば無意味なのだ。
「大切だ」という独りよがりな思い込みをしているに過ぎないのだ。
だからその記憶はお腹の中にしまって、誰にも見せないようにして過ごしてゆかないとならない。ひとたび外に出したが最後、きっとそれは無意味の海に飲み込まれ、希釈されて取るに足らない物に失墜する。

物事の本当の価値は、それが思い込みであるという事まで全て飲み込んだ上で、本人だけが知っていればそれで十分なのだ。

・・・・と、こんな誰も見ていないブログだからこそ書いていられるのだ。
いぇ〜(^^ゞ♪