叔父からニコンF3を頂いた。ニコンサービスセンターでOVHして使い始めている。しかしさすがニコンさん、見積りは32000円ほどだったのが、実際には20000円かからずに整備してくれた。
久しぶりのモノクロフィルム&現像だけれど、デジタルで散々苦労した欲しい階調があっという間に出るのはびっくりしたね。再びメインが銀塩写真に戻ってしまった。
大切なカメラを譲って頂いた叔父さんにも、一生懸命に整備してくれたニコンさんにも感謝しきりの毎日。
一生、大切に使わせて頂きます。
ようこそ♪
Welcome!
Herzlich Willkommen!
Soyez le bienvenu!
Bienvenidos!
ようこそ!
欢 迎!
어서오십시요!
Hoş geldiniz!
Selamat!
أهلا وسهل!
שלום מה חדש!
خوش آمدید!
आइए!
Добро пожаловать!
2012年10月30日火曜日
2011年3月1日火曜日
妥協 ≠ 芸術
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| 愛情は顕示欲を伴う |
私はそれらの素晴らしさを否定するものではないし、むしろそういった自分勝手さは大好きな方だ。
しかしそれらが芸術と呼ばれるものに昇華するためには、他者にどれだけ否定されようとも自分こそが正しいという絶対的な自信によって裏付けられ、またそれを見る他者が納得せざるを得ないような絶対無比な技術を持って表現されなければならない。そして同時に、そのための表現は妥協されてはならない。
本当はもっと上手く描けるのに時間がなくて、或いは他の人に見つかるのが怖くて早く書き上げたものなど妥協の産物としか言えず、それはもはや芸術とは言えない。それは単なる自己顕示欲の発露と呼ぶべきだろう。
妥協した愛を受けて喜ぶ女性など居ない。
2011年2月20日日曜日
仁義なき猫2 「禿げ際の攻防」編
2011年2月19日土曜日
「エコ」って?
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| 汚染することだって、忘れてないぜ!! |
別にこれは人間に限ったものではない。例えば鳥は木の実を食べる際、自分の好む部分のみを啄むとその他の箇所は地面に捨てる。植物の方もさるもので、鳥類達のそういった習性を利用して播種計画を練っていたりする。
では捨てられたのが人工物である場合にはどうか?
例えば塩化ビニールについて、以前は分解するまでに500年かかると言われていた。これは塩化ビニールを栄養素として利用する生物が自然界にほとんど存在しないということに起因する。これが分解されるためには、少しずつ進行する酸化とそれに伴う微生物分解を待たねばならないため、自然界に元々から存在する物質に比べて分解の速度が遥かに遅い。
しかしこれにしたって、放っておけばいずれ必ず分解される。セミパラチンスクを見てみると良い。原発事故からたかだか数十年で街は森に飲み込まれようとしている。鉄は土塊に、プラスチックは溶けて跡形もなくなりつつある。
全ての人工物はそれが生成される前の姿へとゆっくりと回帰してゆく。塵は塵へ、だ。
人工物の分解には自然物の分解に比べて膨大な時間を要する、というだけの話だ。
だから、「こういったものを適切な処理なくして廃棄すると自然を汚染する」という表現はいささか正確さに欠ける。
単に分解のための時間がかかり過ぎるがために、人間が排出する廃棄物の量が自然の処理能力を超えてしまう、というのが本当のところだ。
この「廃棄物の量」と「自然の処理能力」とのバランスを取るため、出来るだけ廃棄物を少なくする、或いは自然が処理しやすい状態にして廃棄する、ということが求められる。これがいわゆる「エコロジー」の本質であるように思う。
「エコ」とは単に「ゴミや二酸化炭素を出さないこと」という認識が一般的である。それは正しい。環境保全のために何をすべきか、その内容を的確に言い表している。
しかし一方で何故それが自然環境の保全につながるのか、そのシステムを全体として理解する必要もあると思う。さもないと畑に堆肥を撒くことすら自然破壊にされてしまいかねない。
さて、あなたの身の回りにひしめく「エコ」な品々。それが一体どういった形で自然環境の保全に繋がっているのか、一緒に考えてみませんか?
では捨てられたのが人工物である場合にはどうか?
例えば塩化ビニールについて、以前は分解するまでに500年かかると言われていた。これは塩化ビニールを栄養素として利用する生物が自然界にほとんど存在しないということに起因する。これが分解されるためには、少しずつ進行する酸化とそれに伴う微生物分解を待たねばならないため、自然界に元々から存在する物質に比べて分解の速度が遥かに遅い。
しかしこれにしたって、放っておけばいずれ必ず分解される。セミパラチンスクを見てみると良い。原発事故からたかだか数十年で街は森に飲み込まれようとしている。鉄は土塊に、プラスチックは溶けて跡形もなくなりつつある。
全ての人工物はそれが生成される前の姿へとゆっくりと回帰してゆく。塵は塵へ、だ。
人工物の分解には自然物の分解に比べて膨大な時間を要する、というだけの話だ。
だから、「こういったものを適切な処理なくして廃棄すると自然を汚染する」という表現はいささか正確さに欠ける。
単に分解のための時間がかかり過ぎるがために、人間が排出する廃棄物の量が自然の処理能力を超えてしまう、というのが本当のところだ。
この「廃棄物の量」と「自然の処理能力」とのバランスを取るため、出来るだけ廃棄物を少なくする、或いは自然が処理しやすい状態にして廃棄する、ということが求められる。これがいわゆる「エコロジー」の本質であるように思う。
「エコ」とは単に「ゴミや二酸化炭素を出さないこと」という認識が一般的である。それは正しい。環境保全のために何をすべきか、その内容を的確に言い表している。
しかし一方で何故それが自然環境の保全につながるのか、そのシステムを全体として理解する必要もあると思う。さもないと畑に堆肥を撒くことすら自然破壊にされてしまいかねない。
さて、あなたの身の回りにひしめく「エコ」な品々。それが一体どういった形で自然環境の保全に繋がっているのか、一緒に考えてみませんか?
2011年2月16日水曜日
哲学猫は野狐禅と踊る。
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| その向こうには何も無い。 |
物事を少しでも真剣に考えた事のあるヤツであれば、巷でよく聞く「生きる意味」やら「人生の目標」やらは全くの虚像に過ぎないとうすうす感づいているのではないかね。
その直感は正しい。
なにせ世界には意味が無い。世界は無意味だ。
これが哲学の出発点。
「世界が無意味である」ということを前提として考えると、俺達の生も、そこで行なわれる全ての物事も、すべからく無意味であることになる。
ベン図を思い描いみるといい。「人間」を取り囲んで「世界」がある。当然、人間は世界の中にしか存在し得ない訳だが、まさしくその「世界」こそが無意味なのだ。
となればその内側の存在である人間もまた無意味だ。もし人間に意味があるとすれば、それは完全な論理矛盾となる。
素晴らしい風景、心やすらぐ人との出会い、別れに伴う哀しみ、達成の高揚、怒り、孤独、希望を諦めない強靭な意思。
そういった物事の一つ一つは、君にとってとても大切な、意味のある記憶なのではないかい?
おめでとう、君の直感は正しい。それらは全て無意味だ。論理的にはね。そういった物事の一つ一つは、君にとってとても大切な、意味のある記憶なのではないかい?
しかしどうだろう?
無意味だからといって、わざわざそれらを投げ捨てる必要もないのではないかい?
ある事象が「客観的に見て無意味である」ことと、「個人にとって大切である」ということとの間には、実は相関関係が存在しない。
無意味なものを大切にしたいのならばそうすればいい。そんなのは個人の勝手だ。
でも忘れるべきではない。自分にとって本当に大切な事は、客観的に見れば無意味なのだ。
「大切だ」という独りよがりな思い込みをしているに過ぎないのだ。
だからその記憶はお腹の中にしまって、誰にも見せないようにして過ごしてゆかないとならない。ひとたび外に出したが最後、きっとそれは無意味の海に飲み込まれ、希釈されて取るに足らない物に失墜する。
物事の本当の価値は、それが思い込みであるという事まで全て飲み込んだ上で、本人だけが知っていればそれで十分なのだ。
・・・・と、こんな誰も見ていないブログだからこそ書いていられるのだ。
いぇ〜(^^ゞ♪
2010年11月5日金曜日
2010年11月2日火曜日
2010年8月19日木曜日
(改めて)深さ無制限の世界へのお誘い(´Д`)
Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像
カラスってのは仲間意識が強いらしく、仲間の死体が吊るされているところを避ける傾向にある。これは「仲間がやられた→次は自分かも」という認識が働くからと考えるのが一番自然と言えるだろう。
実に理性的な判断であると思う。
一方で、フランス革命の時代から人間の本質は理性だと一応は説明されてきたわけだけれど、頭に血が登って後先考える事無く違法行為に走る輩の多さや、自殺願望を持つ者の多さからするとそれについても懐疑的にならざるを得ないね。そもそも自己保存欲求は生物として最も基本的な要素のはずなのに、なぜそれに逆らう行動を自ら好き好んでとろうとするのか。
そう疑問を持った人たちもたくさんいたのだろう。20世紀に入ってからの構造主義者たちは「人間の本質は自然界からのズレだ」「人間の本質は混沌だ」と主張してきた。フロイトもまた「人間はホモ・サピエンス(理性の人)ではなく、ホモ・デメンス(錯乱せる人)だ」と主張する。だからこそ人間は本来であれば到底選択し得ないような愚かな行動をとってしまうのだ、と。
こっちの説の方が遥かに説得力があるように感じる。
理性と混沌の双方をその内部に持つ存在。「自己矛盾を持った存在」こそが人間の定義だとするならば、その自己矛盾は人間が人間である限りずっと解決できないままついてまわる。
やれやれ。俺達は実に奇妙な生き物として生まれたな。
でも折角だからこの状況、俺は出来る限り考え、行動し、楽しんでみようかと思う。
モニターの前のあなたもご一緒に如何ですか?
2010年8月17日火曜日
人の記憶と解像度

たくさん食べて、たくさん夢を見る。なんと平和な生き物だ。
はぅ、やはり猫に産まれてくるべきだったか←選べたのか?それf(^ー^;
能書きはこれくらいにして写真について。
コイツら全く動かないので同じ構図で何枚も撮影できたのだけれど、一番ピントの合っていないこの写真が一番イメージ通りだった。
いままで俺は解像度命なところがあって、カメラやレンズ或いは作例を選ぶ際にも「如何に細かいところまで、かつ四隅まで精密に描写できるか?」という点を重要視していたのだよね。
ところがこの写真、まったくピントは合っていないし絞りも開けすぎてボケボケ。本来なら失敗に属するものであるにも関わらず、当初予期していたイメージ以上にこの子らの普段の様子を描写してくれている。
作品としてダメダメだろうと、他の人がなんと言おうと、俺はこの写真が好き。
バロック期の絵画などは精密描写が信条という部分が大きいけれど、それが時を経て近代、特に印象派になると全体にぼやっとした作風になる。高校生の頃に俺はそれを見て「劣化だ」としか感じなかったのだけれど、今になるとむしろそういった画像の方が頭の中のイメージに近い(俺にとっては)と言うことを実感として認識してきた。
人間である以上、視覚から受けとった情報は主観というフィルターを通して変化することが避けられないわけで、良きにしろ悪きにしろその人にとって都合の良い事実にねじ曲げられて記憶される。
あとはそれを如何に表現するか?というスタンスの問題で、精密描写のように「事実を記録し、見た者が各々で主観を形成しろ」とするか、印象派のように「自分の主観において変容した情報こそが自分にとっての真実なのだから、それを他者にも提示するべきだ」とするかなのだろうね。
写真というのは被写体が存在し、それを光学的にとらえ化学的にフィルムに焼き付ける手段であるから、本来であれば後者のような表現には向かないものである筈なのだけれど、偶然にこういった写真も撮れる。
「偶然性」という、絵画には存在しにくい要素をかますことにより、奇しくも近代絵画に見られる作風と類似の効果を得られるということか。
こういう写真も好みの内に入ってきたからといって狙って撮れるというものでもないし、自分の撮影スタンスを変えるつもりも毛頭無いけど、新たな価値観を得る事が出来、またこういったことを考える機会が持てたというのはとても貴重なことだなと感じる。
これからも色々な発見をしていきたいねぇ♪
2010年8月16日月曜日
2010年8月14日土曜日
2010年8月13日金曜日
こんなんなっちゃった(´∀`)
Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 d76 1:1希釈現像
ここまで連結されているともうワケが分からなく。
とはいえちゃんと意味があるのだろう。もしくは設計したヤツが馬鹿で必要以上に複雑にしてしまったとか?
むしろ後者であることを望みたい。世界は常にシンプルであってほしいからね。仮にそのシンプルさが人にとって酷なものであったとしても、偽って綺麗に見せるよりは真実を認識できたほうが俺にとっては遥かに嬉しいからね。
2010年8月12日木曜日
だからどうした!
olympus E-500
zuiko digital 14-45
この数日は個体の存在意義について考えていたのだけれど、もうそれもやめることにした。
俺が小さな社会システムの内包物に過ぎないとしても、そこで感じてきた感情や考えてきた事柄は事実として存在する。
俺にとっては社会がどうあろうと実はあまり関係ないのだね。
ふと、ショスタコーヴィチの第7番(だったかな)を思い出したね。国が戦争で勝とうが負けようが一国民にとってはイベントの一つでしか無い。「お、勝った?じゃぁビールでも飲んで楽しもうか」という程度の気持ちしか沸き上がってこないもんだ。
社会の枠から外れてしまったといえばそうなのだろうけど、それこそがむしろ人としてあるべき姿であるように感じる。
ラベル:
olympus E-500,
モノクロ,
横須賀,
写真
2010年8月11日水曜日
この考え方が頭から離れない。。。
珊瑚は一つ一つの珊瑚虫が寄り集まって全体としてサンゴ礁を形成し、そうやって初めて生存してゆくことが出来る。それが我々にとってみれば全体を一個の珊瑚礁として認識される。
同時に人もコミュニティを作り、それに帰属する。そして自分たちの済むべき家を作り、働く建物を作り、生活の殆どすべてをその内部で完結させる。
これは客観的に見た場合に、珊瑚礁と何ら変わらない生活方式であると言える。
となれば我々はやはり、社会という大きな生き物の、代替可能な細胞のひとつに過ぎないのだろうか。
やれやれ。
2010年8月8日日曜日
2010年8月3日火曜日
蟻から人間まで
Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45
蟻というのは社会的生物。つまり集団で行動し、群れ全体における成功を目指す。
このような生物においては各個体の個性や行動は単に群れ全体における功績の礎のひとつとしか評価されず、仮に同様の行動をする他の個体が存在するならばいくらでも代替が効く。
「産めよ育てよ」で群れの規模が大きくなればなるほど、そこにはより多彩な個性を持つ個体の存在可能性も高くなるわけで、その分群れ全体としての発展可能性も高くなる。
とどのつまり、こういった生物においては群れそのものがひとつの生物として認識されるべきで、「個体」というのは群れを形成する数のひとつに過ぎない。ある個体が死んだとしても、いうなればそれは身体の細胞の一つが死滅したと同程度の意味をしか成さないことになる。
人間もまた社会的生物のはしくれである。
とすれば巷でよく言われる「個性」やら「自主性」やらも、結局はその人が属する社会、もっと言えば人類全体の発展性に寄与するコマのひとつに過ぎないと考えるほうが遥かにスマートだ。
また社会はそこに住まう者たちに夢を与えることで、その思考を統制し全体としての発展に寄与する方向に導く。「パイロットになりたい♪」「看護士さんが夢です♪」などという子供たちの無垢な夢も、結局はそうやって形作られる。仮に社会的に容認できないような変な夢を持つ子が現れたとして、それもまた「社会全体の可能性を広げる」ための布石の一つとして評価されることになる。
これをより直接的に言い放ったのが社会主義。資本を持ち出して「金を増やせよ」という方向付けで「全体としての発展」という真の目的を覆い隠したのが資本主義という穿った見方もできる。
さて、どうだろう。これではあまりに残酷ではないか。正直、唾棄すべき見解だと思う。
だから俺はこれを否定し、脱出しようともがいた時期もあったのだけれど、いまだに良い方法が見つからないでいる。
「視点を変えればいい。世界は見方によってなんとでも変わるのだから、自分を中心に考えれば全て氷解する」という人もいる。傾聴に値する。しかしこれすらまた、社会がその目的に疑問を持たせないように予め用意した「物語」の一つであるという見方もできるのだ。
困ったね。本当に困った。どう考えていけばよいのだろう。。。
2010年7月27日火曜日
2010年7月22日木曜日
2010年7月21日水曜日
遺物へ。
Nikon F2 Nikkor ai-s50mm f1.4
kodak tri-X400 D-76 1:1希釈現像
筆者の住む横須賀は古くから軍事拠点として重要視されてきた。山の上にあるこの公園もかつては要塞。地元の人間はいまだに「砲台山公園」と読んだりする。東京湾に侵攻してくる艦船をここから砲撃するために大砲が据え付けられていたそうな。
大砲があるということは当然弾薬庫もなければならないわけで、この屋根はその名残なそうな。小高い丘のようになっているが、今でも地下には大きな空間が誰も入れないままに残されているはず。
俺が小さい頃には確かまだ入り口が残っていたのだよね。その頃に一度くらい入っておけば良かったと今になって後悔してみたり。ほら、子供のやることだから、見つかってもこっぴどく叱られるだけで済むじゃない(゚∀゚)。今やっちゃったら犯罪になっちゃうからねぇ。
年は取りたくないねぇ。
2010年7月20日火曜日
未熟者の合気道メモ。とりあえず今までに得たもののまとめ。
Olympus E-500
ZuikoDigital 14-45
力の発生及び伝達について
- 力を入れるのではない。力を出すのだ。
- 力の発生源は身体のどこでも良い。
- 力の作用点もまた、身体のどこでも良い。
- 発生した力を相手に作用させる部位まで、波として自らの体の中を伝達させる。
- 慣れてきたらこれを円、放物線、螺旋として活用する術を研究。
- 対象に力が伝達する過程におけるノイズを徹底して除去する。
- そのためには膝の抜き、肩甲骨の緩み、肋骨の圧縮及び解放が肝となる。
- 腕は肩から生えているのではなく、首のすぐ横から生えているものと認識する。
- 関節を固定支点としたクランク運動は悪と心得よ。揺動支点こそ実現すべきものだ。
- 絶対に体をねじったりひねったりしてはいけない。常に体全体が面のようにして動く。
- 丹田に集中。ただし必要最低限の力と意識を注ぐだけに留める。
- 力を対象に有効に作用させたければ、対象そのものではなくその少し上方または下方を打ちぬくが如く。
戦術面について
- 自らの力を抜いた瞬間に相手の力も一瞬抜ける、「うつらかす」という現象をなるべく多くの人に相手してもらって研究。
- 「先の先」を研究すべし。「技術としての無心」がこれを手助けする。
- 相手の手や足、あるいは目を凝視してはならない。全体をぼうっと把握することを心がける。
- 相手の力の方向をベクトルとして認識し、これに作用しねじ曲げる事を基本とするべし。ベクトルを「折る」方向に力を加えてはいけない。
- 手のひらで敵を捉えるのは困難。腕全体、ないしは体全体を相手に絡みつかせる。
- 無足、浮身を利用した歩法を常に研鑽。重力こそが自らにとって最大の味方であると心得る。
- 多人数掛けの際、一人に技をかけているときには既に別の者に意識が行くように。
- 多人数掛けの際、敵の体を利用して別の敵からの盾とする。
- 対武器戦闘の際には、相手の武器を奪い取るのではなく、相手に持たせたままこれを利用する。
- 刃物は自分の体に接触していても、動かさないよう固定すれば切られる事はない。
その他
- 居付かないように。そのためには常に呼吸を続ける。息を止めると居付きやすい
- 背骨を真っ直ぐに。かつ硬直せず、竹ひごのようにしなやかな軸を意識。
- 常にリラックス。膝、肩甲骨、肋骨が硬直すれば力は伝達できない。
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