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2011年3月9日水曜日

ありったけの情熱をもって、革命家の夢を。

COHIBAキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
年齢制限があるとはいえ、煙草だってお酒やお茶と同じく立派な文化だ。何百年と受け継がれ、洗練されて今に至る。

その文化的背景に目をやらぬまま嫌煙ムードに圧されて消え去ってしまうとすれば、それはひとつの文化の否定であり、侮辱とすらと言える。
それはとても悲しいことだ。

2010年12月23日木曜日

冬の一日

 三崎口にて。

ふと思い立って散歩に行ってみた。いつもは車なのだけれど、今日は歩きだ。
同じ場所を通っても交通手段が違うだけで全く別の風景に見えるね。
この景色の中、持参したお弁当をのんびりと食べてきたよ。
うん、良い一日だった♪ 

2010年11月2日火曜日

ようやく復活。。。

指の怪我をして以来、どうにもキーボードをうつのも億劫になってしまったのをきっかけに、しばらくネット環境から離脱していた。
ここのままでは情報難民になってしまうと思い、ようやく復活。

やれやれ。

2010年8月14日土曜日

天使を捉えるために

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-54mm

上手く張ったなぁ。素直に感心する。
美しく、気高く、誇りにさえ満ちている。
唯一の問題は、コイツが俺の干した洗濯物同士の間に構築されてしまったということなのだよなぁ。。。

2010年8月12日木曜日

だからどうした!

olympus E-500
zuiko digital 14-45
この数日は個体の存在意義について考えていたのだけれど、もうそれもやめることにした。
俺が小さな社会システムの内包物に過ぎないとしても、そこで感じてきた感情や考えてきた事柄は事実として存在する。
俺にとっては社会がどうあろうと実はあまり関係ないのだね。

ふと、ショスタコーヴィチの第7番(だったかな)を思い出したね。国が戦争で勝とうが負けようが一国民にとってはイベントの一つでしか無い。「お、勝った?じゃぁビールでも飲んで楽しもうか」という程度の気持ちしか沸き上がってこないもんだ。
社会の枠から外れてしまったといえばそうなのだろうけど、それこそがむしろ人としてあるべき姿であるように感じる。

2010年8月8日日曜日

てーげー主義。

Olympus E-500 
ZuikoDigital14-45mm f3.5-4.5
 
 先行き不安な雲の波。
 まぁ、なんとかなるっしょ。

2010年8月3日火曜日

蟻から人間まで

Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45

 蟻というのは社会的生物。つまり集団で行動し、群れ全体における成功を目指す。
 このような生物においては各個体の個性や行動は単に群れ全体における功績の礎のひとつとしか評価されず、仮に同様の行動をする他の個体が存在するならばいくらでも代替が効く。
 「産めよ育てよ」で群れの規模が大きくなればなるほど、そこにはより多彩な個性を持つ個体の存在可能性も高くなるわけで、その分群れ全体としての発展可能性も高くなる。
 とどのつまり、こういった生物においては群れそのものがひとつの生物として認識されるべきで、「個体」というのは群れを形成する数のひとつに過ぎない。ある個体が死んだとしても、いうなればそれは身体の細胞の一つが死滅したと同程度の意味をしか成さないことになる。

 人間もまた社会的生物のはしくれである。
 とすれば巷でよく言われる「個性」やら「自主性」やらも、結局はその人が属する社会、もっと言えば人類全体の発展性に寄与するコマのひとつに過ぎないと考えるほうが遥かにスマートだ。
 また社会はそこに住まう者たちに夢を与えることで、その思考を統制し全体としての発展に寄与する方向に導く。「パイロットになりたい♪」「看護士さんが夢です♪」などという子供たちの無垢な夢も、結局はそうやって形作られる。仮に社会的に容認できないような変な夢を持つ子が現れたとして、それもまた「社会全体の可能性を広げる」ための布石の一つとして評価されることになる。
 これをより直接的に言い放ったのが社会主義。資本を持ち出して「金を増やせよ」という方向付けで「全体としての発展」という真の目的を覆い隠したのが資本主義という穿った見方もできる。

 さて、どうだろう。これではあまりに残酷ではないか。正直、唾棄すべき見解だと思う。
 だから俺はこれを否定し、脱出しようともがいた時期もあったのだけれど、いまだに良い方法が見つからないでいる。
 「視点を変えればいい。世界は見方によってなんとでも変わるのだから、自分を中心に考えれば全て氷解する」という人もいる。傾聴に値する。しかしこれすらまた、社会がその目的に疑問を持たせないように予め用意した「物語」の一つであるという見方もできるのだ。

 困ったね。本当に困った。どう考えていけばよいのだろう。。。

2010年7月20日火曜日

未熟者の合気道メモ。とりあえず今までに得たもののまとめ。

Olympus E-500
ZuikoDigital 14-45


力の発生及び伝達について
  • 力を入れるのではない。力を出すのだ。
  • 力の発生源は身体のどこでも良い。
  • 力の作用点もまた、身体のどこでも良い。
  • 発生した力を相手に作用させる部位まで、波として自らの体の中を伝達させる。
  • 慣れてきたらこれを円、放物線、螺旋として活用する術を研究。
  • 対象に力が伝達する過程におけるノイズを徹底して除去する。
  • そのためには膝の抜き、肩甲骨の緩み、肋骨の圧縮及び解放が肝となる。
  • 腕は肩から生えているのではなく、首のすぐ横から生えているものと認識する。
  • 関節を固定支点としたクランク運動は悪と心得よ。揺動支点こそ実現すべきものだ。
  • 絶対に体をねじったりひねったりしてはいけない。常に体全体が面のようにして動く。
  • 丹田に集中。ただし必要最低限の力と意識を注ぐだけに留める。
  • 力を対象に有効に作用させたければ、対象そのものではなくその少し上方または下方を打ちぬくが如く。

戦術面について
  • 自らの力を抜いた瞬間に相手の力も一瞬抜ける、「うつらかす」という現象をなるべく多くの人に相手してもらって研究。
  • 「先の先」を研究すべし。「技術としての無心」がこれを手助けする。
  • 相手の手や足、あるいは目を凝視してはならない。全体をぼうっと把握することを心がける。
  • 相手の力の方向をベクトルとして認識し、これに作用しねじ曲げる事を基本とするべし。ベクトルを「折る」方向に力を加えてはいけない。
  • 手のひらで敵を捉えるのは困難。腕全体、ないしは体全体を相手に絡みつかせる。
  • 無足、浮身を利用した歩法を常に研鑽。重力こそが自らにとって最大の味方であると心得る。
  • 多人数掛けの際、一人に技をかけているときには既に別の者に意識が行くように。
  • 多人数掛けの際、敵の体を利用して別の敵からの盾とする。
  • 対武器戦闘の際には、相手の武器を奪い取るのではなく、相手に持たせたままこれを利用する。
  • 刃物は自分の体に接触していても、動かさないよう固定すれば切られる事はない。

その他
  • 居付かないように。そのためには常に呼吸を続ける。息を止めると居付きやすい
  • 背骨を真っ直ぐに。かつ硬直せず、竹ひごのようにしなやかな軸を意識。
  • 常にリラックス。膝、肩甲骨、肋骨が硬直すれば力は伝達できない。

2010年7月17日土曜日

矛盾の走水






さねさし 相武の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも
弟橘媛命









Olympus E-500
Zuiko Digital 14-45mm f3.5-4.5

 愛する人のために海に身を投げるという行為は果たして正しかったのか。

 俺が身を投げる側なら、きっとそれも甘受する。
 俺が残される身であるなら、気が狂ってしまうだろう。


 では、どうすれば?

2010年6月23日水曜日

寓話。







He doesn't save broken toys.

たとえば君は病院で目覚める。
見回すと周りには何百というたくさんのベッドが並んでいて、そこに寝かされた人々に目覚める様子はない。
皆一様に幸せな夢を見ているようだ。

君は唐突に気づいてしまう。
部屋の向こうからベッドごと人々が順番に消えて行き、それは絶対に逃れられない運命であると。


さて、考えてみてくれ。
 君は周囲の人を起こすべきか?
 もし起こすだけ起こして、そいつが「起きたくなんてなかった」と泣きながら訴えてきたらどうするのだ?
 君は、周囲の人を恐怖のどん底に突き落とす権利を持っているのか?

 答えなんて人それぞれだ。
 だがひとつだけ確実そうなことがある。

 神様は、目を覚ましてしまった者などもう愛さないということだ。

2010年6月20日日曜日

無心という技術。

olympus E-500
Zuiko Disital 14-45mm 


 筆者は合気道という若干マイナー(?)な武道をやっているわけだが。今日は仲間の演武会を見に行ってふと思った事など。


 今日「武道」と呼ばれる一群の競技は、そう呼ばれる以前の戦闘技術、つまり剣術や柔術といった「武術」に端を発する。
 「武術」とは、要するに戦場を如何にして生き残ってくるかという、ただそれだけの事を何百年もかけて徹底追求し続けたところから生まれた技術群だ。
 そして各流派は「生き残る」という目的達成のための最も確実な手段として、「敵対勢力の完全な無力化」を追求した。

 そのような時代においても、やはり精神性というものは尊ばれていたようだ。例えば多くの剣術家は「無心」という精神状態を大切にした。

 とはいえこれは現代の武道において尊ばれる精神性とは、ちと意味が異なるようにも思う。
 たとえば「先の先」という概念があるが、これを実現するためにはそれこそ頭を空っぽにして(=無心になって)、相手が攻撃意志を持った瞬間にこれを感じ取り入身してゆかねばならない。
 とどのつまり、ここでは無心という精神状態を「勝つための技術」として利用しているわけだ。

 筆者は合気道とは別にエアライフルによる射撃競技もやっているわけだが、ここでも形を変えて「無心」というものが重視されるように感じる。
 「俺は三脚、銃を支えるための三脚。」「音が聞こえてくるけど、俺には関係ない。俺は機械。」と自分に言い聞かせ、そして言い聞かせたことも含めた外界の全てを忘れることで初めて思ったところに弾が飛んでいく。
 ここでもやはり「頭からっぽ」状態を「当てるための技術」として使っている。

 いずれにしろ、「無心」は「勝つため」に必要な精神的技術であるように感じる。
 
 さて、今は平和な時代だ。「勝つため」という目的でこういう精神的な技術ははっきりいって必要ないかもしれない。皆が皆何かしらの競技をやっているわけでもないしね。
 とはいえ純粋な技術体系でしかなかった「武術」が、精神性を重んじる「武道」に変遷したことでより多くの人に親しまれ、それと同時に上記のような精神技術をも広めることが出来るならば、あるいは武術とは異なったもっと別の場所でも役立つかもしれない。
 たとえそれが生活の中にある何気ない所作であったり、あるいは普段の仕事の中でふと出てくるものであっても良い。
 そういった領域においても「無心」に代表される精神的技術の利用可能性を広めたという点で、「武術」から「武道」への変遷はとても重要であり、また偉大な転換であったと思うのだ。


2010年6月12日土曜日

知性の痕跡。

olympus E-500  Zuiko Digital 14-45mm
RawをApertureにてモノクロ化

 現代に生きる我々には、デジタルデータであったり紙媒体であったりと物事を記録する方法についていくつもの選択肢がある。ではいかなる手段によることが、情報を出来る限り長く後世まで残すことが出来るのか。
 以前、写真の保存性の項で少し検討したが、今回はまた違った視点、「写真以外の物も含めた上で人が管理しない場合」に焦点を当てて考えてみたいと思う。
 
 これは純粋に記憶媒体の物理的耐久性の問題に直結する。人は物事を記録する際に何がしかの物体にこれを焼き付けるという方法を採るわけであるが、当然この物体の特性によってその耐久性が異なる。
 そしてその特性は、シンプルなものほど残り易いということが出来そうである。つまり機械を見てみるとわかるが、複雑な機械になるほど故障の発生率も増加し、また故障した際の修理も困難になる。

 となれば、仮に今この瞬間に人類が滅亡したとして真っ先に呼び出せなくなる媒体は一群のデジタルデータであるといえよう。
 デジタルデータはそもそもが人間の目からは判別できない0と1による信号で構成され、これを読むための装置を必要とする。またDVDやMOなどの単純なディスク媒体ならまだしも、HDなどはそれ自体にドライブとしての仕組みを有している。
 このようにデジタルデータは記録媒体の他にそれを再生するシステム全体で生き残っていることが保存ために必要な要件であり、これは絶えず機器類を適切な状態に保つ人の存在が不可欠となる。
 
 ではアナログデータはどうか?
 これはより単純に、「シンプルなものほど生き残る」と言える。
 例えばフィルムはポリエステル上に残された銀の粒子による画像だが、画像というからには経年劣化やカビの発生によって細部がぼやけ始め、やがて何が写っているのか分からなくなる時が必ずやってくる。
 そこに焼き付けられた情報が、画像という細かな再現を必要とするものであるが故、もう少しシンプルな情報である文字や記号などよりも再現不能となるまでの期間は短くなってしまうことが予想される。
 
 更に事を写真などの画像ではなく、他の情報にまで広げてみよう。これによって記録媒体の選択肢を広げる事はできる。つまり文字情報であれば紙に書きつけるという方法も採れる訳だが、この場合には紙自体とそこに書きつけられたインクという二者の耐久性を考慮する必要がある。
 とはいえ、フィルムほど神経質にならなくても良さそうである。古代のパピルスから始まり羊皮紙を経て近現代の紙にいたるまで、雨風にさらされなければ数百年は生き残ることがわかっている。インクも炭素系のものや鉛筆を使えばかなりの年数持つ。炭素と言うのは比較的安定した化学的特性を持っているのためである。
 ただしこれには条件がある。紙が風雨に晒されず、また過度に乾燥したりもなく、当然焼失したりの災害からも守られている必要がある。しかしこれにしても、先に見たデジタル機器よりは簡単な話だろう。単に頑丈な建物や容れものを用意すればよい。当然、当該建物やら容れものの耐久性がまた更に文段となろうが、石の建築が木の繊維でできた紙よりももろいとは言えないのではないかな?
 
 では更に条件を過酷にして、雨風に晒され、それでも何千年・何万年と情報を維持することの出来る媒体はないものか?
 あるにはある。物体に直接刻みつけるという方法がそれである。
 とはいえこの方法は刻みつけるべき物体の化学的特性を理解していなければならない。例えば金属は駄目だ。多かれ少なかれ腐食する。
 結論から言えば自然界に最初から存在する物体、つまり石を選ぶべきだろう。その中でも特に摩擦に強い種類のものを選んで刻みつければよい。古代の遺跡を見るとわかるが、数千年を経ていまだに文字を読むことが出来る。
 とはいえ、これにしたって完璧な記録方法とは言えない。地球上には生物が存在している以上、常にその侵食を受けるからだ。我々の住む街だって、整備されなければ数十年で植物に埋もれ、数百年すればそこに街があった痕跡そのものが消滅するだろう。
 また火山など大規模な地殻変動による極端な熱に晒されたり、あるいは流水の中に長期間晒されるなどをしても、石に刻まれた情報が融解あるいは摩耗し消滅する。

 つまり一番信頼できる石に文字を刻み込むという方法にしても、周囲の環境によって保存が左右される事には代わりはなく、単にこの方法が他の手段よりもより過酷な環境に耐えうるというだけの程度問題でしかないことがわかる。
 
 この世界に不変のものが存在しない以上、人間もやがては必ず滅びる時がやってくる。
 最も原始的な、石に刻みつけた文章だけが残るとしたら、今のうちに現代の技術をいくつかでも良いのでこの形で残しておくべきのような気がする。数式であったり、単純なプログラムを01で書き連ねるのもよいだろう(これは流石に無理か(;´∀`))。
 何かしらが残ってさえいれば、そこにそれなりの知的生命体が存在した証拠になるだろう。
 あとは仮に見つけるヤツが出てきたとして、ソイツの想像力にお任せする。
 
 えらく遠い話のように思える。しかし人という存在がいずれ必ず居なくなるというのは、おそらく事実だ。
 毎日こんなことを考える必要はないけれど、たまにはこういったことに思いを巡らせてみるのもよいかな、と思った次第なのである。
 
 以上、今宵のお話はこれまで。