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2010年11月5日金曜日

迷子の孤独

観音崎の灯台。その心臓ともなる照明装置だ。
小さい頃の俺、将来の夢は「灯台守」だったことをふと思い出したね。
単に人と話さずに済んで、毎日海を見ていられると思ったからなのだけれど。
・・・その志向は今でも大して変わらんな(;´∀`)

2010年8月19日木曜日

(改めて)深さ無制限の世界へのお誘い(´Д`)

Nikon F2 ai Nikkor 50mm f1.4s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 カラスってのは仲間意識が強いらしく、仲間の死体が吊るされているところを避ける傾向にある。これは「仲間がやられた→次は自分かも」という認識が働くからと考えるのが一番自然と言えるだろう。
 実に理性的な判断であると思う。

 一方で、フランス革命の時代から人間の本質は理性だと一応は説明されてきたわけだけれど、頭に血が登って後先考える事無く違法行為に走る輩の多さや、自殺願望を持つ者の多さからするとそれについても懐疑的にならざるを得ないね。そもそも自己保存欲求は生物として最も基本的な要素のはずなのに、なぜそれに逆らう行動を自ら好き好んでとろうとするのか。

 そう疑問を持った人たちもたくさんいたのだろう。20世紀に入ってからの構造主義者たちは「人間の本質は自然界からのズレだ」「人間の本質は混沌だ」と主張してきた。フロイトもまた「人間はホモ・サピエンス(理性の人)ではなく、ホモ・デメンス(錯乱せる人)だ」と主張する。だからこそ人間は本来であれば到底選択し得ないような愚かな行動をとってしまうのだ、と。
 
 こっちの説の方が遥かに説得力があるように感じる。
  理性と混沌の双方をその内部に持つ存在。「自己矛盾を持った存在」こそが人間の定義だとするならば、その自己矛盾は人間が人間である限りずっと解決できないままついてまわる。
 
 やれやれ。俺達は実に奇妙な生き物として生まれたな。
 でも折角だからこの状況、俺は出来る限り考え、行動し、楽しんでみようかと思う。
 モニターの前のあなたもご一緒に如何ですか?

2010年8月16日月曜日

この眼。

Cosina Bessa-R jupiter 50mm f2.0
Kodak Tri-x400 D76 1:1希釈現像

生物にとって世界は常に敵対する存在である。
人間どもはその事を忘れすぎているのではないかね?
そう言われている気がした。

2010年7月27日火曜日

迷いこむなら竹の林。

Nikon F2 Ai Nikkor 28mm f2.8s
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像
 
 行ったら戻って来られない。
 
 ふと、そんな感じがした。

2010年7月22日木曜日

にくきう

Nikon F2 Ai Nikkor28mm f2.8s
Kodak Tri-X D76 1:1希釈現像

こいつら、野良のくせに肉球がぷにぷにで。性格も良かったりする。
・・・もしかして関連性があるのか?

2010年7月21日水曜日

遺物へ。

Nikon F2 Nikkor ai-s50mm f1.4
kodak tri-X400 D-76 1:1希釈現像

 筆者の住む横須賀は古くから軍事拠点として重要視されてきた。山の上にあるこの公園もかつては要塞。地元の人間はいまだに「砲台山公園」と読んだりする。東京湾に侵攻してくる艦船をここから砲撃するために大砲が据え付けられていたそうな。
 大砲があるということは当然弾薬庫もなければならないわけで、この屋根はその名残なそうな。小高い丘のようになっているが、今でも地下には大きな空間が誰も入れないままに残されているはず。
 俺が小さい頃には確かまだ入り口が残っていたのだよね。その頃に一度くらい入っておけば良かったと今になって後悔してみたり。ほら、子供のやることだから、見つかってもこっぴどく叱られるだけで済むじゃない(゚∀゚)。今やっちゃったら犯罪になっちゃうからねぇ。
 年は取りたくないねぇ。

2010年7月18日日曜日

月見て跳ねる。


Cosina Bessa-R Canon 50mm f1.8
Kodak Tri-X400 1:1希釈現像

 鎌倉は明月院にて。
 晴れたとはいえ室内は暗かったのでシャッター速度は30分の1。さすがにブレたね。
 一眼レフとレンジファインダー機の一番の違いって、その保持方法だと思う。レンジファインダー機はレンズが細いからがっしりと構えられないのだよね。どうしても左手の掌がカメラ本体から浮いてしまう。
 これを防止するためにきつめにしたストラップで肩とカメラを固定、更にファイダーを眼窩に当てて確実に保持するのだけれど、それでも一瞬で狙おうとすると失敗することが多いね。
まだまだ修行が足りないなぁ。

2010年7月15日木曜日

悪い子はいねが〜!?

Nikon F2 Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X D76 1:1希釈現像

 自宅前の公園にできた遊具。どう考えてもこれを見て泣き出す子の方が多いような気がする。
 見ようによってはローマの休日で有名になった真実の口にも見えなくもない。あれば手を食いちぎられるだけだったが、こいつには体ごと喰われるということか。クワバラクワバラ。。。
 「嘘をつくのは悪いこと」とは何歳ぐらいの時に身につく概念なのだろうか。ロシアの一部地域ではこれを明確に教える文化のないまま数百年を経過した結果、嘘発見器すら騙し通す人材が大量に出現したそうで、冷戦時のスパイとして重宝がられたという話も聞く。
 ということは、善悪の判断基準は後天的なものであって教育されて初めて身につくもの、さらに言えば「善良であろうとする姿勢」は元来人間に備わっているものではないという事になる。
 性悪説とまでは言わないが、少なくとも自分や自分の子供達に如何なる教育がなされているか、なされてきたかを常に注意深く見守ってゆく態度は忘れてはいけないと思うね。

2010年7月13日火曜日

原風景 雨

Nikon F2 NIkkor Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 雨が好き。
 理由は知らない。

2010年7月10日土曜日

くだらない決意だが、こういうのが俺にとっては重要。

Nikon F2 Ai-s50mm f1.4
Kodak Tri-X400 D76 1:1希釈現像

 ようやく夏になり始めたね。春に生えてきた芽もだんだん大きくなった。種類も分からんけど、強く育ってくれたらそれだけで嬉しかったりする。
 四季がちゃんと存在しているというのは重要ね。冬があるからこそ春や夏が来ただけでも楽しくなるのだ。
 きっとこの夏も楽しくなるぞ♪いや、するのだ♪

2010年7月8日木曜日

仁義なき猫 「論理学的に見る神の不存在の証明」編



ねこ
「神様ってどんな存在?何をしたの?」

俺 
「世界を作ったって事になっているね」

ねこ 
「世界って何?」

俺 
「俺達を取り巻く全てのことさ」

ねこ 
「物理学の世界じゃ、11次元まで存在するってことになってるけど?」

俺 
「その11次元も作ったのさ」

ねこ 
「天文学の世界じゃ、宇宙の先には空間は存在しないって事になっているらしいね」

俺 
「うん、でも空間を形作るエネルギーが存在してる」

ねこ
「じゃぁそのエネルギーの存在も?」

俺 
「神様が作ったってことになるね」

ねこ
「そのエネルギーの向こう側、あるいは裏側には何があるの?」

俺 
「何も無いよ」

ねこ 
「じゃぁ世界ってのは正しく『全て』のことなんだね?」

俺 
「そういうことになるね。世界は『全て』だから外側はない。想定していた世界に外側が見つかったとしたら、それもやっぱり世界という概念の中に含まれてしまうからね」

ねこ
「うん、世界に外側はない。ということは、世界の外側には何者をも存在しえないってこと?」

俺 
「その通り」

ねこ 
「神様が世界を創るためには、世界がないという状態がまず存在しなければならない。でも世界には外側がないから、そんな状態は存在しえない」

俺 
「存在しないところには何者をも存在することは出来ない」

ねこ 
「ということは、神様は存在しえない」

俺 
「うん、神様は存在しない。そう断定して間違いなさそうだね。すっきりした♪」


・・・数分後・・・
俺 
「・・・こんなこと言ってたら神様のバチあたらないかな?」

ねこ 
「あたるかもね。知らんにゃ、だってオレは猫だもんにゃぁ♪」

俺 
「ズルイよ、それ(・´з`・)」

2010年7月6日火曜日

存在そのものの意義。

Nikon F2 Nikkor Ai-s50mm f1.4
Tri-X 400 D76 1:1希釈現像


「ただそこに居る」ことの重要性。
「在り続ける」ことの尊厳。


2010年6月10日木曜日

ナルキッソス達の邂逅







われ童子の時は誇ることも童子のごとく、
おもうことも童子のごとく、
論ずることも童子のごとくなりしが、
人と成りては童子のごとくを棄てたり。

                               コリント書 第13章より


 動物に於いて、性的に成熟した個体でありながら未成熟な部分が残る状態のことをneoteny(幼態成熟) と呼ぶ。転じて社会学の領域に於いても、人間が外面の完全性と相反する不完全性を内面に抱えて生き続ける事を指して同じく幼態成熟説と呼ぶことがある。
 人間は外見の完全さに対して内面は未熟な存在として産まれ、それは解消されることなく歳を重ねる。大人と同じ体躯を持つが故、それに見合った成熟した内面を得ようとして一生もがく。
 ギリシャ神話のナルキッソスは水鏡の中に何を見たのだろう。そこには完全な、美しい人間が写っていたはずだ。
 彼は水鏡に写る完全なる存在に同化せんと水面にその身を投じる。しかし完全なる自分と一つになれたと思った途端、水鏡は破れ暗い死が彼を待つのみである。
 「完全な自分」と実際の自分は常に乖離し、いつまで経っても同一化することが出来ないとの喩えである。
 では、そもそも「完全な自分」など幻想に過ぎないとして、それを追い求める努力は無益なことであるのか。それもまた否である。
 すなわち完全たろうとする理想を捨てることは、それ以上の進歩・発展の可能性をも失う事と同義であるが、進歩や発展といった自己変革の過程こそが人を人たらしめてきたと言えようから、これを否定する事は人たるを諦めたと同義と考えるからである。
 かくて人は産まれ出でて以来、求めても決して自らのものにならないものを追い続ける事を要求され、そして約束されたようにそれを手に入れることが出来ないままに死を迎える。
 やっかいな生き物として産まれたなぁ、俺たちは。でもせっかくだから精一杯、あがいてみようか。