コリント書 第13章より
動物に於いて、性的に成熟した個体でありながら未成熟な部分が残る状態のことをneoteny(幼態成熟) と呼ぶ。転じて社会学の領域に於いても、人間が外面の完全性と相反する不完全性を内面に抱えて生き続ける事を指して同じく幼態成熟説と呼ぶことがある。
人間は外見の完全さに対して内面は未熟な存在として産まれ、それは解消されることなく歳を重ねる。大人と同じ体躯を持つが故、それに見合った成熟した内面を得ようとして一生もがく。
ギリシャ神話のナルキッソスは水鏡の中に何を見たのだろう。そこには完全な、美しい人間が写っていたはずだ。
彼は水鏡に写る完全なる存在に同化せんと水面にその身を投じる。しかし完全なる自分と一つになれたと思った途端、水鏡は破れ暗い死が彼を待つのみである。
「完全な自分」と実際の自分は常に乖離し、いつまで経っても同一化することが出来ないとの喩えである。
では、そもそも「完全な自分」など幻想に過ぎないとして、それを追い求める努力は無益なことであるのか。それもまた否である。
すなわち完全たろうとする理想を捨てることは、それ以上の進歩・発展の可能性をも失う事と同義であるが、進歩や発展といった自己変革の過程こそが人を人たらしめてきたと言えようから、これを否定する事は人たるを諦めたと同義と考えるからである。
かくて人は産まれ出でて以来、求めても決して自らのものにならないものを追い続ける事を要求され、そして約束されたようにそれを手に入れることが出来ないままに死を迎える。
やっかいな生き物として産まれたなぁ、俺たちは。でもせっかくだから精一杯、あがいてみようか。

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